2017/02/11

掌編:奇妙な休日


 雪解けの水滴る音が、街に響いていた。
 
 三連休最終日の祝日。朝の九時に、僕はパンとコーヒーを買いに、家から徒歩十分ほど先のコンビニへ向かった。今は雲一つないけれど、昨夜は少しだけ雪が降っていたみたいだ。アスファルトが黒く湿っているし、車や人の通らない場所に、うっすらと白い雪の層が出来ている。いい天気だけど、空気はひどく冷たい。僕の吐く息や、道を走る車の排気ガスが白くなっている。

 忙しかった仕事を終えて迎えたこの二日間の休日、ほとんどの時間を僕は眠り続けた。体調が悪いわけではなかったが、仕事の疲労からか、どうにも頭が上手く働かず、まともな食事もせず、ずっとベッドに横になっていた。だから、外を散歩するのは、ずいぶんと久し振りのことのように感じた。

 視界に映る景色、皮膚が感じる寒さ、空気の匂い。それらが、家の中しか見ていなかった、僕の脳に新鮮な情報を与え、活性化していくようだった。本当に、ずいぶんと久し振りにはっきりと目の覚めた気分になった。そんなときだった。

「……あの、すみません」

 背後から、声かけられた。振り向くと、二十代半ばくらいの女性が立っていた。茶色に染めた長い髪の上からマフラーを巻きつけ、灰色のダッフルコートを着ている。反対側からこちらに向かって歩いてくる男性が一人いたが、彼女と会話ができるような距離にいるのは、僕しかいなかった。

「……なにか?」

「あの。中上さんですよね。このあいだ、隣の部屋に引っ越してきた宮原です」

 遠慮がちの口調で、彼女はそう言った。そう言われてみれば、彼女の顔には見覚えがあった。以前一度、挨拶に訪ねてきてくれたことがある。
 
 僕がああ、と反応を返すと、「お散歩ですか」と彼女は言った。

「はい。ちょっと、そこのコンビニまで」

「そうなんですか」

 ニコニコとした感じのいい話し方をする女性だった。それから彼女は周囲に目をやり、少し低い声で、

「……昨日、このあたりで何か事件があったんでしょうか」

「は?」

「朝早くから、パトカーが何台もこの通りを通ってるんです。警察の人も多いですし……。ほら、あそこにも」

 彼女が、僕の背後を目で示した。そこにはたしかに濃紺の制服を着た警官が二名、何か地図のようなものを広げて話をしていた。

本当だ」

「ネットで検索かけてみたんですけど、それらしいニュースはなかったので、大変なことではないと思うのですが……」

 そうしていると、不意に警官二名のうち、一人が顔を上げ、僕たちの方を見た。そして彼はもう一人に何かを短く言い、僕たちの方へ向かってきた。

「あの。わたし、失礼します」

 そう言って、彼女は歩いて行った。一人の警官は僕の前で立ち止まり、もう一人の警官が、早足になって彼女の後を追った。

「すみません。少しお尋ねしたいことがあるのですが。このあたりに住んでおられる方ですか?」
 
「ええ」

「昨夜、宇宙人がこのあたりに出たらしくて……。彼らは人間に成りすまして潜伏している可能性があるので、警戒しているんですが」

「は?」

 何かを考えるよりも早く、言葉の方が先に出ていた。僕はまだ眠り続けていて、夢を見ているのかと思った。しかし、夢にしては、僕の感じている五感の感覚はあまりにもリアルであり、警官の表情も、真面目そのものだった。働いている人間の倦怠感のようなものすら、わずかに感じさせる。

「チェックさせてもらっても宜しいでしょうか?」

「……はい」

 何をされるのだろうかと思ったが、僕は大人しく頷いた。警官は、腰のポーチから何か、ペンチのような形状のものを取り出した。真中のあたりに、メーターのようなものが見える。

「手を」

 言われるまま、僕は右手を差し出した。彼は、取り出した器具で、僕の人差し指を挟んだ。メーターの針が、ぴくりと、わずかに動いた。警官はそれを見て、すぐに器具を僕の指から外した。
 
「ご協力ありがとうございます」

 そう言って、彼は器具をポーチに仕舞い、小さく会釈をした。

「……そういえば、さきほどあなたと話をしていた人は……?」

「近所の人です。つい先日引越してきて」

「はあ」

 警官はなにか訝しげな表情になった。

「ではあまり面識のない人だったんですね」

「ええ」

 頷くと、彼は頭痛を感じているかのように顔をしかめ、細く息を吐いた。

「人間になりすました宇宙人は、『人間』になっているうちは、自分が宇宙人であることを忘れています。無意識のレベルでは、正体を見破られる危険を回避する行動を取る傾向にあるらしいのですが……。――お気をつけて。一度彼らに連れ去られてしまえば、それまでですから」

それから僕に一礼すると、小走りで、宮原さんが歩いて行った方向へ向かった。振り返ってみると、宮原さんも、彼女を追って行ったもう一人の警官の姿も見えなかった。

 電線から、雪解けの水がしたたり落ちて来て、アスファルトの上で小さく弾けた。

 僕は通りに一人になり、ふたたびコンビニに向かって歩きはじめた。相変わらずの、穏やかな休日の朝だ。

 しかし、と僕は、歩きながら考えた。

 これは昨日まで僕がいた世界だろうか?

微弱だった音がハウリングしながら大きくなるように、僕のなかの恐怖がとめどなく増大してきた。寒い冬の日なのに、じっとりと、背中に汗をかいていた。