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2020/10/05

掌編:雨上がりの朝(改稿版)

 瑞々しい雨上がりの匂いがした。アスファルトは黒く濡れ、空はまだ薄青色に霞んでいる。僕は玄関から出ると、その湿った空気を小さく吸い、庭先のポストまで歩いて行った。

 新聞の朝刊を取り出しながら、向かいの家に視線を向ける。その家には三原紗由利という同学年の女の子が住んでいて、彼女はいつも僕と同じ時間、きっかり朝の六時半に新聞を取りに外に出てくる。

 僕たちはこの街に古くからある商店街の一画に住んでいた。僕の家は理容店で、三原の家は喫茶店だった。彼女の家の喫茶店は茶色のレンガ調の壁で出来ていて、店の前にはプランターに植えられた色とりどりの草花が咲いている。そのおしゃれな佇まいは、シャッターを下ろしている店も多いこの古い商店街のなかで唯一、花やかな印象を持っている。

 彼女とは四年前、僕たちが中学二年生だったころ、一度だけ同じクラスになったことがある。教室ではあまり会話をすることはなかったけれど、登下校中に道でばったり会ったときはなんとなく一緒に歩いたり、どちらかが学校を休んだ時なんかは、家に配布物を届けたりするくらいの付き合いはあった。

2020/10/04

掌編:秋の日の曖昧な記憶

 その日も細く静かな雨が降っていた。最近はずっと曇りや雨の日が続き、ずいぶんと長い間、青空を見ていないような気がした。

 僕はカフェの窓際の席に座って、夕暮れ時の薄暗い通りを眺めていた。窓に付着したいくつもの雨粒が、外の明かりを滲ませている。信号機の青や赤の色、流れている車のヘッドライトの白や、近くにある電飾看板の黄色……。それらすべてが、まるで窓の表面で弾け、混ざり合っているように見える。

 今日は一日、憂鬱な気分だった。何か嫌なことがあったわけではない。ただ少し、気分が落ち込んでいた。そういう日も、たまにはある。何に対してもあまり集中出来ず、意識が知らず知らずのうちに、自分の内側に向いてしまうような日。

 そういう時にいつもそうしているように、僕は陽が傾き出した頃、あまり賑やかではないカフェに入り、一人でぼんやりと時間を潰していた。この店のコーヒーは濃く、苦味が強かった。そしてどうしてか、今日はいつもよりもさらに、その苦味は強いように感じた。

 窓の外を見ながらほとんど無意識のうちに口にしていたコーヒーの苦さに、僕は薄く目を閉じた。するとその一瞬、僕の脳裏に、真夏の頃の、ひどく大きな夕陽と濃い影、そして空間全体を震わせているかのような蝉の鳴き声の記憶がよぎった。

 そのイメージの中心には、二十歳くらいの女の子がいた。編み上げのサンダルを履き、濃紺のショートパンツに白いTシャツを着て、ほっそりとした姿をしている。

 瞼を開けた。

 雨に濡れた窓と、滲んだ夕方の街の明かり。ガラス越しに遠く聞こえる、車の走行音。

 僕は頭を振った。口に残っていたコーヒーの後味も、記憶の気配も、すうっと消えていった。

 いったい、あれはいつの夏の記憶だったんだろう。

 彼女が出てくるということは、数年は前のはずだ。けれど、先ほどの一瞬の間に蘇った記憶は、まるで、まだ過ぎてからひと月と経っていない今年の夏のもののように鮮明だった。

 僕はカップを手に取り、再びコーヒーを一口飲んだ。苦味が、気だるさに満ちた頭を刺激する。カップをソーサーに戻すと、陶器の触れ合う音が、カタリ、と小さく響いた。

 あるいは混ざり合っているのかもしれない、と僕はふと思った。

 一月ほど前の夏の記憶と数年前の夏の記憶が、僕の頭のなかで混ざってしまったのだろう。記憶はおそらく時間の順序など関係なく、頭の引き出しのなかに無秩序に仕舞われているだろうから。ごちゃごちゃになってしまうこともあるだろう。

 僕は窓に滲む街の光をぼんやりと見続けた。陽はずいぶんと短くなってきていた。ふと気がつけば、屋外は一段と暗くなっていて、窓辺に座っている僕の姿が、うっすらと窓ガラスに映しだされていた。

 相変わらず、雨はやまない。付着した水滴が、時折、途切れがちな筋を描きながら下へ流れていく。僕の姿も、静かなカフェの店内の様子も、すべての輪郭がその窓のなかで混ざり合っていた。

2020/03/29

掌編:冬の海辺と巨大な暗闇

 曇りの夕方だった。夕方といっても、もうほとんど夜に近かった。光がゆっくりと衰え、景色が灰色に染まってゆく。海岸には、僕と彼女以外、誰もいない。周期的な波の音がするだけだ。

「寒いね」

 彼女は柔らかそうな白いマフラーに顎をうずめた。冷たい冬の風が海の向こうから吹き付けてきて、僕たちの身体を冷やし、彼女の長い髪を靡かせて、どこかへ去っていった。

「もうそろそろカフェにでも行きましょう?」

 彼女が首を傾げるように僕の顔をのぞき込んだ。

 うん、と僕は頷いた。しかし動こうとしない僕に、彼女は小さくため息を吐いた。

「もう。あんまり長くいると、体が冷えて、風邪ひいちゃうよ」

 そう言いながらも彼女は砂浜の上に腰を下ろし、両手を組み合わせ、吐息を吹きかけている。僕もその隣に座った。雨の日に植物を濡らす無数の雫のように、波の音は僕の胸を洗っていくような気がした。灰色の空は、どんどんと夜の暗さで世界を覆いつつある。金属を思わせるような、硬質な冷たさをもつ空気があたりに漂い、喉を通り肺に至り、僕とその冷ややかさは一つになり、再び血が身体を温め、また空気が冷やし……。波のような周期性を、体に感じる。

2018/12/09

掌編:雨あがりの朝

瑞々しい雨あがりの匂いがした。アスファルトは黒くぐっしょりと濡れ、霞んだ空の向こうに上りつつある太陽からの日差しはまだ弱く、街は灰色に近い水色にぼんやりと浮かび上がっていた。僕は玄関から出るとその空気を小さく吸って、庭先のポストまで新聞を取りに行った。

 向かいに家に住む、三原という女の子は、いつも僕と同じ時間、きっかり朝の六時半に新聞を取りに外に出てくる。僕たちは、古くからある商店街の一画に住んでいた。

 僕の家は理容店で、彼女の家は喫茶店だった。彼女の家の喫茶店は、茶色のレンガ調の壁で出来ていて、店の前にはプランターに植えられた色とりどりの草花が可憐に咲いている。そのおしゃれな佇まいは、シャッターを下ろしている店も多いこの古い商店街のなかで、唯一、花やかな印象を持っている。

 彼女とは、四年前、僕たちが中学二年生だったころ、一度だけ同じクラスになったことがある。教室ではあまり会話をすることはなかったけれど、登下校中に道でばったり会ったときはなんとなく一緒に歩いたり、どちらかが学校を休んだ時なんかは、家にプリントを届けたりするくらいの付き合いはあった。

 新聞を手に持ちながら、なんとなく灰色に近い薄青い空を見ていると、向かいにある彼女の家から、カラン、というドアベルの軽やかな音がした。

 彼女が、白いシャツに黒のロングスカート、それに青色のカーディガンを羽織って、ドアから出てきたところだった。

2018/03/09

掌編:夜の海辺


ここはどこだ

 書きながら僕はそう考えた。 書かれた言葉だけの世界、それ以外はなにもない。時間も、空間も、光も、重力も……。
 僕とはだれか?
 ここでは僕は誰でもない。ただの視点をもたらすもの。この文章を書いているものであり同時に、おそらく語り手と呼ばれるはずの、この世界の内側と外側を仲介するもの。

 最初の取っ掛かりとして、僕は次の一文を書く。

空白であった空間に、ひとりの女が現われた 
 
 次に空間を僕は決定しよう。彼女に形を与え、そのままでは文字記号の連なりに過ぎないもののなかに、小説世界の空間をつくり出していこう。

2018/02/24

掌編:眠れない夜に

「じゃあ、また明日」

 分かれ道で立ち止って、沙智子は他の三人の友達に向かってそう言った。ここから先は、他の三人は同じ右側の道を歩いて行くが、彼女だけが左側の道で帰宅することになる。

「うん。またね」

 幼馴染の詩織が笑みを浮かべて答え、それに続いた他の二人の友人たちの別れの挨拶を聞きながら、彼女は手を振り、一人で歩き出した。日没の時間をわずかに過ぎ、周囲はぼんやりと薄暗い。陽が暮れてから気温も下がってきたみたいだ。肌寒さに、彼女は羽織っていた赤いカーディガンの袖を引っ張って、手の甲までを覆った。

 今日は、詩織の買い物に、お昼から付き合った。昨日、所属している吹奏楽部の練習の終わりに、詩織から声をかけられたのだった。

「サチ、明日ヒマ?」

 サックスをハンカチで拭きながら、詩織は言った。

「なんで?」

 フルートをケースに仕舞いながら、沙智子は答えた。

「明日ね、うちのクラスの友達と買い物に行く予定があったの。よかったらどうかなと思って」

「それって誰?」

「えっと、Sさんと、Nさんと」

 皆、知っている名前だった。話したこともある。どの子も、あまり目立たない、大人しい女の子たちだった。

「うん。わたしもいく」

 その人たちと一緒なら、気まずい思いもしないで外出ができるだろうと考えて、沙智子はそう答えた。

 ――けれど、なぜ彼女がわたしを誘ったのか――

2018/01/15

掌編:言葉を集める人



 冷えた空気のなかで、僕の吐く息が白く浮かび上がる。枯れた葉を地面に落とし、枝だけになっている木々の隙間から見える大きな月が、ほの暗い青白さを夜空に広げている。ひとけのない団地の通りに、街灯の白い光がまばらに灯っている。
 
 今は、何時なんだろう。

 僕は上着の袖を捲り、腕時計を見た。時刻は、午前一時二十分を少し過ぎたころだった。 

2017/02/11

掌編:奇妙な休日


 雪解けの水滴る音が、街に響いていた。
 
 三連休最終日の祝日。朝の九時に、僕はパンとコーヒーを買いに、家から徒歩十分ほど先のコンビニへ向かった。今は雲一つないけれど、昨夜は少しだけ雪が降っていたみたいだ。アスファルトが黒く湿っているし、車や人の通らない場所に、うっすらと白い雪の層が出来ている。いい天気だけど、空気はひどく冷たい。僕の吐く息や、道を走る車の排気ガスが白くなっている。

 忙しかった仕事を終えて迎えたこの二日間の休日、ほとんどの時間を僕は眠り続けた。体調が悪いわけではなかったが、仕事の疲労からか、どうにも頭が上手く働かず、まともな食事もせず、ずっとベッドに横になっていた。だから、外を散歩するのは、ずいぶんと久し振りのことのように感じた。

 視界に映る景色、皮膚が感じる寒さ、空気の匂い。それらが、家の中しか見ていなかった、僕の脳に新鮮な情報を与え、活性化していくようだった。本当に、ずいぶんと久し振りにはっきりと目の覚めた気分になった。そんなときだった。