1
その朝は、一つ気がかりな夢を見たこと以外は、何の変哲もない薄曇りの日の朝だった。
目を覚ましたとき、時間感覚を喪失していた。灰色の遮光カーテンの向こうに漂っている光の気配は、普段の朝のものよりもずいぶんと弱く、日が昇り切っていない早朝に目覚めてしまったのか、それとも曇りの日でそうなっているのか、判断できなかった。眠気でまだ頭がはっきりと働ない僕は、ただ薄目を開けて、その弱い光を湛えているカーテンを、しばらく眺めていた。
ぼんやりとした意識の片隅には、目覚める直前まで見ていた夢の記憶が曖昧に漂っていた。けれど、もうすでに夢の全体像は思いだせない。いくつかの断片的なイメージだけはおぼろげに浮かんでくるものの、それらは鮮明にも、ひとつのまとまりになることもなかった。
目覚めたあと、妙に胸に残る夢。そんな夢を見る日は、別に珍しくはない。けれど、どうしてか、この日の僕は、その感覚がいつもよりも強く気になって、しばらくの間、意識して夢の内容を思い起こそうとした。
しかし、記憶は薄れていく一方で、結局どんな夢だったのかは思いだせなかった。僕は、胸のうちにわだかまっていた気持ちを吐き出すようにして、ひとつ大きくため息を吐き、身体を起こした。
薄暗い部屋が、視界に広がる。静かな、灰色の朝。白い天井、明かりの消えたLEDのライト、いくつかの本とノートパソコンと筆記用具を乗せた木の机。
――今は何時なんだろう。
僕は枕元にある充電ケーブルに繋いだスマートフォンを手に取った。画面には、八時二十分という時刻が表示されていた。予想していたよりも遅い時刻だったが、それでも、大学三年生になってから午前最初の授業がなくなった僕にとっては、普段よりも少し早い起床だった。
眠気はまだしつこく頭に付きまとっていて、瞼が重い。布団から出るのがおっくうだった。ちょうどこの日は、午後まで予定がなかった。僕はもうひと眠りすることにして、スマートフォンを放り出し、布団をかぶり直した。瞼を閉じてしばらくすると意識が薄れはじめた。
すると、先ほど思い出そうとしていた夢の映像が一瞬だけ焦点を結び、一人の少女の姿がはっきりと脳裏に浮かんだ。その瞬間、眠気がすっと引いていき、意識がはっきりと、現実の方へ戻ってきた。
――川野美佐希。
僕は、再び目を開けた。
――そうだ。さっきまで僕は、川野と一緒にいる夢をみていたんだ。
☆ ☆ ☆
僕と川野美佐希が知り合ったのは中学二年生の年だった。
同じ公立の中学校に通っていた僕たちはその年にクラスメイトになり、一学期に、たまたま隣の席になった。それまでは話をしたこともないし、名前も知らなかった。川野は特に目立つところのない、普通の女の子だった。
容姿がものすごく綺麗だというわけではなかったし、特別に成績が良いという話も聞いたことがなかった。ただ、少しだけ周りの女子よりも品の良い印象があった。髪は肩につくくらいまでの長さで、前髪を目の少し上あたりで緩く横に流していた。制服も着崩してはおらず、ノートや教科書も綺麗に使っていた。遅刻や居眠りをすることもなく、毎日、授業をきちんと受けていた。
四月、五月の間は、僕たちはほとんど言葉を交わさなかった。行事なんかで席が近い生徒が集まって行動しなくてはならないときに、必要に応じて言葉を交わすことくらいはあったけれど、それ以上のやり取りはなかった。
はじめて会話らしい会話をしたのは、六月上旬の美術の時間だった。
その授業で取り組んでいたのは絵画だった。対象は自由で、静物でも、写真をもとにした風景画でも、アクリル絵の具を用いて描く作品なら何でもよかった。
僕は、美術室の窓の外に見える風景を描いていた。ちょうど窓際の席に座っていたし、そこから見えるグラウンドと、その周りに生えている木々を描こうと思ったのだ。
僕は小学生の頃に絵画教室に通っていて、絵が得意だった。幼稚園の頃によく絵を描いていたので、たぶん僕の長所を伸ばそうとしてのことだろう、小学一年生のときに親が見つけてきた教室に通い始めて、六年間、僕は週に一度のレッスンを受けていた。
「上手だね」
涼しさを感じさせるような、女の子にしては少し低くて、落ち着いた声音が、僕の耳に届いた。隣の席に座っている川野美佐希という女の子の声だということはわかっていたけれど、彼女とはそれまでにほとんど話をしたことがなかったから、最初は、僕に話しかけているのだとは思わなかったのだ。しかし、彼女は間違いなく僕に視線を向けていた。
「ここから見える景色を描いているんでしょ?」
突然話しかけられたことに少し驚きながら、
「そうだけど」
と、僕は短く答えた。
すると、彼女は、窓の外、僕が描いている風景の方へと目をやった。
ちょうど初夏の天気のいい日で、緑色の若葉が空から降り注ぐ強い陽射しを浴びていた。外は明るく、木の葉も雲も、まるでそれ自体光っているように見えた。
そして、彼女は視線を僕に戻して、柔らかな笑みを浮かべながら言った。
「それまでは全然気がつかなかったけど、岸本君の絵を見てから、ここから見える景色ってこんなに綺麗だったんだって思ったよ」
ほとんど関わりのなかった女の子に突然そんなことを言われて、僕はちょっと面食らってしまった。どう返していいのかわからず、でもとにかく、「ありがとう」とだけ、戸惑った調子を出さないようにして言った。
会話は続きそうになかったのだけれど、川野は相変わらず、僕に向けて、にこにこと微笑みを浮かべている。妙な間が出来てしまい、それがなんだか気まずくて、僕は視線を泳がせた。そのとき、ふと、彼女が描いている絵が目に入った。川野の方は、写真を一枚持ってきており、それに写っている風景を描いているようだった。
「そこは、どこの景色なの?」と僕は、自分のことから話題を逸らそうとして訊ねてみた。
彼女は、机の上に乗せてあった写真をぺらりと拾って、僕に見えるように置き直した。
「鎌倉。親戚の家があって、ほとんど毎年、夏休みに行ってるんだ」
「そうなんだ」
「うん。なんだかここ、綺麗な景色だと思ったから」
僕は机の端に置かれているその写真を見た。
それは線路沿いの景色だった。季節はきっと今のような初夏の頃だろう。光の明るさや、木々の緑の鮮やかさが、そう感じさせた。
写真を見ながら、そうだね、と僕は頷いた。調子を合わせたわけではなくて、本当に綺麗な景色だと思ったのだ。
「でもなんか、うまく雰囲気が出ないんだよね。なかなか難しい」と、彼女は首を傾げて自分の絵を見ながら言った。
僕は改めて彼女の絵を見た。隣に座っていたからずっと目には入っていたけれど、それまでは、あまり注意を向けていなかった。
下書きは丁寧に描かれていた。遠近感覚も自然で、美術の授業で描く分には十分に上手だと思った。けれどやはり、写真から受ける瑞々しさの印象は欠けていた。
「木葉とか空のところは、もっと濃くて明るい色を使ってみた方がいいかも」と、僕は言った。
「そう?」
「たぶん」
無責任かも、とは思ったけれど、言ってしまった以上、僕は首を縦に振った。川野は少し考え込むように自分の絵と写真を見比べたあとで、
「じゃあ、そうしてみようかな」
と、頷きながら言った。
すると、通りかかってきた五十歳くらいの女性の美術教師が、僕たちの私語を注意してきた。僕たちの会話はそれで中断し、作業に戻った。
その日から、僕たちはぽつりぽつりと会話を交わすようになった。美術の授業中に話すことが一番多かったけれど、それ以外のときでも、ふとしたときに話をするようになった。
川野は聴いた音楽や、観た映画の話をよくした。流行りのものだけではなく、何十年も前の作品のこともよく知っていた。楽器の演奏や作曲も出来ないし、絵を描くことも得意ではないけれど、それらを鑑賞するのはとても好きなんだというようなことを彼女は僕に言った。
それからひと月も経つ頃には、僕たちは何年も前から友達だったかのように打ち解けていた。
2
僕はベッドから起き上がり、そのまま窓際まで歩いていき、カーテンを開けた。しかし陽射しは弱く、部屋はそれほど明るくはならなかった。はっきりしない天気だ。薄灰色の雲が上空に居座り、その隙間に小さく空の青が見える。
今朝見ていた夢の感覚は、しばらく残り続けていた。僕はそれが薄れてくるまで、ぼんやりとそんな空を眺めていた。それから、洗面所に行って髪を整えた。それから家のなかで使っているカーディガンを着て、コーヒーをいれて椅子に座って本を読み始めた。
僕が住んでいるのは学生向けのワンルームのマンションで、縦長の部屋に簡素なベッドと机と本棚が設置してある。
装飾品の類いはなく全体的に殺風景ではあるけど、壁際には一枚だけ、僕が大学二年生の頃に描いた抽象画が立てかけられている。高校を卒業するまで、僕はかなりの時間を絵を描くことに割いていた。しかし、大学に入ってから今までの間にきちんと仕上げた絵は、この一枚だけだった。
十一時を過ぎた頃に、ふいにスマートフォンの着信音が鳴った。僕は読んでいた本を置いて、机の上で細かな音を立てながら震えているスマートフォンを手に取った。松本という友人からの着信だった。
彼は、中学高校と、六年間僕と同じ学校に通っていた。大学は別々になったけれど、僕たちの地元である埼玉県所沢市に住んでいる松本と、都心の方にある大学の近くのアパートに住んでいる僕は、今でも二、三カ月に一度ほど、一緒に食事を取ったり、買い物にいったりするくらいの付き合いを続けていた。
通話アイコンをタッチし、「久しぶり」と、僕は言った。
「お前、今ヒマ?」と松本は挨拶抜きでいきなり問いかけてきた。
「本読んでた」
「じゃあヒマだな。俺、ちょっと用事があって今池袋まで来てるんだけど。昼メシでも一緒に食わね?」
いいよ、と僕は言って、時計を見た。
「十二時くらいでいい?」
「オッケー。東口で待ち合わせな。その辺で時間潰して待ってる」
わかったと僕は言って、通話を切った。スマートフォンを机に置くと、読んでいた本に栞を挟んで閉じ、それから家を出る支度をした。午後に大学の授業があったので、それを受けるためのノートや本などを荷物に詰め、黒のチノパンに青色のシャツを着て、その上に灰色のパーカーを羽織り、マンションを出た。
最寄り駅から電車に乗り、松本と待ち合わせの約束した池袋駅に到着した。改札を出るとすぐに松本を見つけた。彼は近くにあった柱に背中を持たせかけて待っていた。ジーンズにスポーツメーカーのブルゾンという格好で、ワイヤレスイヤホンを耳につけている。僕に気づくと、彼はイヤホンを外し、片手を上げて僕に挨拶を送ってきた。
駅前の人の流れのなかで、僕も小さく手を上げ返して、松本に近づいた。
「どこ行く?」
僕が訊ねると、「お任せ。何かいいとこない?」と松本が言った。
僕は少し考えて、大学の友人に教えてもらった店に行くことにした。池袋駅周辺はたまに訪れる場所だったから、多少の土地勘はあった。肌寒い曇り空の下を十五分ほど歩き、その店にたどりついた。駅前の喧騒からは少し離れたところにある、小さな店だ。
客層には男性が多く、店内には少し古びた雰囲気が漂っている。白と赤のチェック柄のテーブルクロスの掛けられた四人掛けの席が六つに、狭いカウンターに四つ椅子が並んでいる。
カウンターの上にぶ厚い液晶テレビが設置されていて、そこには何かの旅番組のようなものが映っていた。席は半分ほどが埋まっていた。二人連れのスーツ姿の人、一人で来ている中年男性、それから僕たちくらいの年代の若い男のグループがいくつか。
「古」
この店に入るのが初めてだった松本は、席に座ると周囲を見ながらそう呟いた。
「でも料理は美味しいよ。しかも安いし」
僕は言い、机に一つしかないメニュー表を、松本にも見えるように、横向きに開いた。松本はそれをじっと見て、「何がおすすめなの?」と訊ねてきた。
「カレーか唐揚げ定食」
「じゃ唐揚げにするわ」
ん、と僕は頷いた。ちょうど店の人がテーブルに水を置きに来た。そのタイミングで注文を告げたあと、僕たちは水を飲みながら話をした。
実のない話だ。最近聞いている音楽の話とか、見たネット動画の話とか、大学やバイト先であったおかしな話とか。きっと、今夜眠るときにはこの話の内容のほとんどは忘れ去っているだろう。
しばらくすると会話が途切れた。松本はスマートフォンをいじり始め、僕はあまり座り心地のよくない硬い木の椅子に深く座り直した。
そして、僕は何気なくテーブルのすぐ横にあった窓の外に視線をやった。近くを通っている線路と遮断機、灰色の空、雑居ビル、それから忙しそうに歩いている人々が見える。
するとふいに、今朝夢で見た一人の女の子のイメージがぼんやりと頭に浮かんできた。それに続いて、
『ここから見える景色を描いているんでしょ?』
そんな、かつて耳にしたことのある声が、頭のなかで響いた。夢で見ていた川野の姿が、次第にはっきりとしてきて、それから消えた。僕は小さく息を吸い、長い瞬きをするように、ゆっくりと目を閉じて、開いた。
再び窓の外に視線を移す。暗い曇りの日の、東京の街。アスファルトも空も同じような灰色をしていて、道を歩く人々のなかには傘を持っている人もいる。ふと、遠くの雲間からひとすじの光の束が射しこみ、それが踏切の向こう側にあるビルの一部に当たってガラスが光を鋭く反射している光景に注意をひかれた。
もしも絵に描くとするなら、あそこがいい。
僕はその絵のイメージを思い浮かべた。イメージが鮮明になってくると、胸の奥が痺れてくるような感覚が訪れてきた。それは、かつて絵を描いていたときに感じていたものだった。ずいぶんと弱くはなっているけれど、僕はその感覚が今この瞬間にも生じたことに対して、小さな安堵感を覚えた。
「お前の方は最近何か面白いことあった?」
ふとそんな声がした。視線を正面に戻すと、松本はいじっていたスマートフォンから顔を上げていた。
内面に深く沈みかけていた意識が、ふっと浮上してくる。僕は小さく首を振って、自分の中に浮かんでいた絵のイメージを掻き消した。それから、松本の問いに何と答えようか返事を考えた。
そして、そのときにあることを思いついた。それで僕はひとつウソをついた。
「この前、所沢に戻ったときに川野を見かけたよ」
「は? 誰?」
「川野。川野美佐希。中二のとき、同じクラスだった」
「ああ、川野ね」
と、彼は言った。松本は、川野の近所に住んでいた。それから、少し考え込むような、不思議そうな感じで言った。
「へー。なんでこっちに来てたんだろう。用事でもあったのかな」
「――どういうこと?」
「いや、川野の家、俺らが大学に入るときに引っ越してったから」
松本はさらりといった。
「は?」
「いやだから、引っ越したんだって。うちにもあいつのお母さんが挨拶しにきてた」
「そうだったんだ」と、少し驚きながら言った。松本は水を飲みながら頷いた。
「……鎌倉のあたり、かな」
僕がそう言うと、
「どうだったかな。あ、でも、そういう言われると、鎌倉とかって言ってたような気もしてきたな」
独り言のように彼は言い、それから、こう続けた。
「うん。たぶんそうだ。鎌倉って言ってたわ。でもなんでお前、そんなことがわかったの?」
「いや、わかったわけじゃないよ。親戚がそのあたりに住んでるって聞いたことがあったから、なんとなく」
「ふうん。でもお前、あいつとそんなに仲良かったっけ?」
「一時期席が近かったから、その時に」
僕がそう答えると、「気になるのか?」と松本は少し面白がっているような口調で尋ねてきた。
「いや、別に」
と僕は苦笑しながら言って首を横に振り、この話題を続けるのを避けた。普通、それほど関わりがあったわけではない中学のときの同級生がどうしているかなんていうことを気にかけることはない。これ以上川野の話をして、松本に僕と彼女のことを何か詮索されたり追及されたりしたら面倒だと思った。
そのすぐあとで、店の人が注文した料理を運んできた。作り立ての料理の温かみのある匂いが漂ってきた。僕たちはそれを食べながら、また断続的に、どうでもいいような近況の話をして過ごした。
☆ ☆ ☆
その後、僕は松本と別れて、大学に向かう電車に乗った。空いていた座席に座って、スマートフォンを手に持ち、僕たちの世代の人間が一般的に使っているSNSアプリを開いた。
僕とつながっている可能性のある人物のリストのページをしばらく眺めた。いくつか懐かしい名前を見つけたけれど、そこに川野の名前はなかった。残念なような、安心したような、奇妙な感覚を覚えながら僕はそのSNSアプリを閉じた。
大学に着くと、いつもどおりに授業を受けた。必修科目ではない。ほとんど趣味で取っている文学と芸術史に関する講義だった。人気はないが僕は比較的好きな科目だった。しかし、この日はあまり集中することが出来なかった。受講生もまばらなその教室で、九十分間、ぼんやりと講義を聞いて、僕はキャンパスを出た。
スマートフォンの時刻表示を見たら、午後の五時を過ぎていた。いつもならまだ陽の明るさがかすかに残っているような時間帯だったが、今日は灰色の雲が空に立ち込めていて、もうほとんど夜のように街は暗くなっていた。
流れていく車のヘッドライトと、街灯の白い光が、路上を照らしている。どこからか救急車の音が聞こえ、大学の近くにある踏切の甲高い音が響き始めた。
暗い道を歩きながら、僕は今日の一日を思い返した。
朝、川野の夢に妙に引っかかった他、松本から連絡が来て一緒に昼食を食べたというややイレギュラーな出来事はあったけれど、大方の過ごし方においては、いつもと同じ一日だった。
松本と話していたときに感じた、『たぶんこの会話の内容は夜には忘れているだろう』という直感は正しく、すでに、彼と話していた話の内容はほとんど覚えていない。やはり、今夜寝るころにはすっかり忘れているだろう。
しかし、今朝川野の夢を見たあとに感じた妙な気持ちは、まだ僕の胸のどこかに引っかかっている。毎日毎日、すぐに忘れてしまうようなことばかりに囲まれて日々を過ごしているのに、彼女のことは、未だに時折、頭に過る。
『岸本君の絵を見てから、ここから見える景色ってこんなに綺麗だったんだって思ったよ』
あれから、もう七年が経つ。
十四歳から二十一歳の七年というのは長い時間だ。十四歳の頃のことが、僕にはもう遠い昔のことのように思える。けれどあの頃見聞きした彼女の姿や言葉は僕の感情を、未だに刺激する。あの夏のあの日の記憶は、特に。
3
一学期最後の美術の授業があった日は、梅雨が明けたばかりで猛烈な暑さだった。開け放たれた窓から時折風が入ってきてはいたけれど、四十人ほどの生徒が作業をしている教室は蒸し暑く、僕たちは汗を流しながら作業をしていた。
「こんな感じかなぁ」
川野の声が聞こえた。彼女は、自分が描いた絵を点検するように眺めていた。はじめて言葉を交わした時のものよりも、ずいぶんと生き生きとした印象の作品になっていた。少なくとも僕はそう感じた。彼女が描き写そうとしていた風景が持っている爽やかな印象が、その絵にもちゃんと宿っているように思った。
「いい絵だね」と僕は言った。
「ありがとう。いろいろ教えてくれたから助かったよ」と、彼女は言った。
ううん、と僕は首を横に振った。僕はただ、自分の感想みたいなことを伝えただけで、その絵を描き上げたのは川野自身だ。
川野の横で絵を描く時間はこれでもう終わりなんだな、と僕はふと思った。二学期の始めには席替えがある。美術の課題も変わるだろう。そのことに、僕は残念なような、寂しいような気持ちを、仄かに感じた。
学期末は慌ただしく過ぎていき、夏休みが始まった。僕は週に何度か近所の塾の夏期講習に通うこと以外、その長い休みでやるべきことは特になかった。夏期講習の授業は大体が午前中までで、僕はその後の長い午後を、自分の部屋でただ本を読んで過ごしていた。
毎日同じような日々が続き、二週間も経つ頃には、早くも僕は休みに飽き飽きとしていた。一日一日は長く感じたが、しかし何日かが過ぎたあとでまとめて振り返ってみれば、それらの時間は、ひどく短く感じた。退屈で、刺激に乏しい毎日だった。ただ淡々と、何も面白いことはないままに、夏休みの日々は過ぎていった。
しかしお盆の終わり頃に、その後の僕の数年間に大きな影響を与えることになる出来事が起こった。
はじまりは、地元の街で、ばったりと川野に会ったことだった。
僕はふと気が向いて、昼下がりに書店に行ったところだった。そこは僕の地元では最も大きな書店だった。四階建ての建物で、小説も雑誌も専門書も、様々な種類の本が揃っている。僕はそこで三十分ほどかけて小説を二冊選び、レジに向かおうとしたところだった。
彼女は僕とすれ違う方向から歩いてきた。その顔を見て、川野だ、と思ったときには、彼女も僕の方に視線を向けていた。
「岸本君」
目が合うと、川野は僕に声をかけてきた。彼女は水色のTシャツに白色のスカートをはいていた。穏やかに晴れた空のような色合いの服装だった。
「久しぶり」と僕も会釈をして言った。
彼女のそばには、十歳くらいの女の子がいた。髪型は川野よりも短いけれど、顔はよく似ていた。女の子は、なんだか興味深そうに僕の方を見ていた。
「妹?」
尋ねると、「そうだよ」と川野は言った。
「由美っていうの。今三年生」
「こんにちは」と、その子は少し緊張したような声音で言った。その様子を見て、僕は小学三年生くらいの頃、中学生はとても大人に見えていたことを思い出した。怖がらせないように、丁寧な口調で、僕も挨拶を返した。
川野は小説作品を手に持ち、妹はハードカバーの本を一冊持っていた。二人は、一緒に読書感想文の本を選びに来ていたところだったらしい。
「岸本君も読書感想文の本を買いにきたの?」
「いや。ちょうど読む本がなくなってたから」
「本も読むんだ」と、興味深そうに川野は言った。
「うん。暇なときには、わりと。文庫本なら安いし」
「ふうん」
「どうして?」
「ううん。何となくそんな気がしてたから。やっぱり、って思ってた」
どこかいたずらっぽい調子で、彼女はそう答えた。
僕たちは一緒にレジに向かって、それぞれに会計を済ませた。家の方角が同じだったので、書店から出たあとも、僕たちはなんとなく一緒に歩いた。僕と川野が隣に並び、川野の横を由美ちゃんが歩いた。
蝉の鳴き声が響いていた。空気はひどく蒸し暑く、まっすぐに続いている道の遠くは陽炎でわずかに揺れて見えた。
「夏休み、何かした?」
ふと、川野が僕に訊ねてきた。僕は首を横に振った。
「全然。夏期講習くらい。終わってほしくはないけど、退屈でだんだん休みに飽きてきた」
「わかるー」と、川野は苦笑しながら言った。
僕たちは、宿題のことや、一学期の成績のことや、いい加減うんざりしてきた夏の暑さなんかについて話しながら、真夏の街中を歩いていた。
ふと会話が途切れたときに辺りが陰った。空を見上げると、小さな雲がちょうど太陽にかかったようだった。陽光を受けている雲が銀色に輝いていた。けれどそれは数秒のことで、すぐに太陽にかかっていた雲は通り過ぎ、再び、肌がひりひりしてくるような強い陽射しが降り注ぎ始めた。
すると、川野が「あ、そういえばね」と何かを思いついたかのように言った。僕は視線を空から彼女の横顔に向けた。
「今度の月曜日に、妹と、あの絵に描いた場所に行くの。親戚の家に、三日間泊まってくるんだ」
そうなんだ、と僕は相槌を打った。
「いいな。僕はたぶん、この夏休みはどこにも行かないよ」
すると川野は、僕の方へ顔を向けた。そしてこんなことを言った。
「もし予定が合うなら、一緒に行く? 朝一緒に行って、夕方までなら、案内してあげられるよ」
なんでもないことのような口調だったけれど、僕の方は驚いてしまって、すぐに返事をすることが出来なかった。「え?」とだけ、聞き返すような、間抜けな声が漏れた。
「日帰りでも、結構楽しいと思うよ。夏は賑やかだし、名所もいっぱいあるし」
にこにこしながら、彼女はそう続けた。
戸惑いながら、僕は彼女から視線を逸らせた。女の子と出かけたことなどそれまで一度もない。だから、強烈に川野のことを意識してしまって、言葉がうまく出てこなかった。けれど、彼女と知らない街に行くというのは、とても楽しいことだろうと思った。
だから僕は、たぶん多少は不自然に空いていたはずの間のあと、素直に首を縦に振っていた。
☆ ☆ ☆
その日、僕たちは最寄りの駅前の改札口で待ち合わせをした。約束した時間は、午前十時。その十分前に到着した僕は、改札の前の壁際に立ち、駅のなかを行き交う人々を眺めながら川野を待っていた。
川野は十時ちょうどに由美ちゃんと一緒に姿を現わした。白いTシャツと茶色のショートパンツという格好で、肩に麦わらのバッグをかけている。
「お待たせ」と、僕の前に来ると川野は言った。由美ちゃんも、ぺこりと小さく頭を下げて挨拶をしてくれた。僕も二人に挨拶を返し、それから一緒に改札口を抜けて、ホームに降りた。
この日も良く晴れていて、ホームの屋根の隙間から、濃い青色をした夏の空が見えた。陽射しは強く、影が地面に焼けつくんじゃないかと思うくらいに強かった。
到着した電車に乗ると、車内は肌寒いほど冷房が効いていた。乗客はまばらで、僕たちが乗った車両の隅の座席が広く空いていた。僕たちはそこに座った。僕は背負っていたリュックを、川野は麦わらのバッグを、膝の上に置いた。
「神奈川に行くのは初めて?」
電車が走り出すと、川野が言った。僕は頷いた。
「せいぜい都内までしか、出掛けたことない。電車に乗るのも、久しぶりだよ」
「そうなんだ」と、川野は言って、駅のホームで買ったペットボトル入りのスポーツドリンクをバッグから出して、フタを捻った。プラスチックで固定されていた部分が外れる、ぱきっという小さな音が響いた。
いくつもの街の景色、駅、踏切が窓の外に次々に流れていった。僕はそんな窓の外の景色を眺め、川野は時折手にしている飲み物を飲み、由美ちゃんは本を読んでいた。この間、書店で買っていた本だ。
午前中の陽射しが、電車の窓から射し込んでいる。たまに、電柱や線路付近に立っている何かの柱の黒い影が、車内を瞬間的に走っていく。
「ずっと景色見てるね」と、やがて川野が言った。
「え。あ、うん」
ふいに話しかけられて、変な反応になってしまった。僕は視線を窓の外から川野に向けた。
「面白い?」
川野は、首を傾げるようにして言った。うーん、と僕は首を捻った。
「面白いっていうか……。いろんな街があるんだなって思ってた」
「なに、どういうこと?」
彼女は面白そうに言った。
そう言われると、うまく言葉が出て来なかった。僕は自分が思っていたことをどう説明したらいいだろうかと考えた。
それまでの僕の十四年の人生は、僕が住んでいた街だけで完結していた。家と学校の周りの、半径三キロメートルくらいのなかで。それで不便を感じたことは、ほとんどなかった。
食品や日用品などが全て揃っているショッピングセンターもあるし、洋服屋もあるし、書店も、映画館も、ファミレスもカフェも公園も、それからふと絵に描きたくなるような場所も、たくさんあった。
そして、今流れるように通り過ぎていったいくつもの街のなかにも、同じようにそういう生活の場や風景があるんだと思うと、――それは当然のことではあるのだけれど、改めてそう考えて、窓の外に見えた通りの先に広がっているはずの街の景色を想像してみると――なんだか気が遠くなってくるような感じがしていたのだ。
そんなようなことを多少くだけた感じにして言うと、はぁ、と彼女は呆れたような、感心したようなため息を吐いた。
「岸本君、いつもそんなことを考えてるの?」
「いつもってわけじゃないけど。でも、ふと頭に浮かんできたことについてずっと考えてるときは、たまにあるかも」
なんだかズレた話をしてしまったかもしれないと思い、少し恥ずかしくなってきた。学校では、誰ともこんなに個人的で込み入った話はしない。僕は苦笑いをして、その場をごまかした。
「でも、別にそんなに深く考えてるわけじゃないよ。とりとめのないことばっかり」
すると、「いいと思う」と彼女は真顔で言った。
「え?」と僕は聞き返した。
「自分の見方で何かを見られるのも、自分が何をどんな風に見ているのか伝えられるのも、いいことだと思う」
彼女の素直な口調で発されたその言葉は、僕のなかに染みこんできた。川野は、やはりどこかクラスの他の人たちとは違うと思った。こういうことを話して、笑われたりはぐらかされたりせず、まっすぐに言葉を返してくれる人に、僕はそれまで一度も出会ったことがなかった。
すると、本を読むのをやめて僕たちの話を聞いていたらしい由美ちゃんが川野に身体を寄せて、口を開いた。僕に聞こえないようにしたのか、小さな声だったけれど、僕のところにもその言葉は届いてきた。
「ねえ、お姉ちゃんたちは付き合ってるの?」
川野は「は?」と間の抜けた反応をし、由美ちゃんの方に顔を向けた。それから少しだけ間が出来て、やがて、「そういうわけじゃないよ。同じクラスってだけ」と言った。
「ふうん」と、由美ちゃんは言った。
「ね?」と、川野は、聞こえてたでしょ? という感じで、確認するように僕に視線を送ってきた。
「うん」と、僕も頷いた。
すると、由美ちゃんは、再び「ふうん」と言った。どこか納得いかないような、怪訝そうな目で僕たちの方を見ていたけれど、すぐにまた、持っていた本に視線を戻した。
それからしばらくして池袋駅に着いた。とにかく人が多く、迷路のように入り組んだその駅を僕たちは三人で歩いて電車を乗り継ぎ、川野が絵に描いた街に向かっていった。
4
予定通りの時刻に、僕たちは目的地の駅にたどりついた。
昼時に差し掛かっていて、太陽は高くのぼり、気温もかなり上がっていた。冷房の効いていた電車から出た瞬間、外の空気をひどく蒸し暑く感じた。
このあとは、まず三人で一緒にお昼ご飯を食べて、それからバスで二人が泊まることになる親戚の人の家のまで由美ちゃんを送っていく。そのあとで、僕は川野に鎌倉の市内と、彼女が絵に描いた場所を案内してもらう、という予定になっていた。
駅を出て、すぐ近くにあったファミレスに入った。僕たちはそれぞれ五百円くらいの料理と、大きなフライドポテトを一皿注文して、それを食べた。
最初は僕の事を警戒していたようだった由美ちゃんも、この頃には少しずつ打ち解け初めてきてくれていて、僕に対しても、いろいろなことを話してくれた。
食事を終えてから、僕たちはバスに乗った。二人掛けの席が二つ、前後に並んで空いていたので、川野と由美ちゃんが並んで座り、僕がその後ろの席に座った。僕は、時折バスの走行音やアナウンスの声に交って聞こえてくる二人の会話を聞きながら、はじめて来た街の風景を眺めていた。
十分ほどすると、川野が僕の方を振り向いて「降りるよ」と言った。住宅街のなかにあるバス停だった。あたりには家々が密集して並んでいる。僕たちの地元にもよくあるような通りで――というか、日本の住宅地はたぶんどこもこんな感じなんだろう――、その感じはとてもよく似ていた。僕はその街の通りに、既視感と新鮮さが混じった、不思議な感覚を覚えていた。
住宅街を歩いて数分、やがて二人の足が止まった。どうやら、親戚の人の家に着いたようだった。由美ちゃんは川野と二言三言、言葉を交わし、それから僕に視線を向けて、「じゃあね」と、彼女は小さく手を振った。
「うん。じゃあね」と、僕は手を小さく上げて返事を返した。それから、由美ちゃんは僕たちのすぐそばにあった一軒の庭先に、たたたっと走っていった。
その姿を見ていた川野は視線を僕の方へ戻して言った。
「じゃあ、行こうか」
うん、と僕は頷いた。
そうして、僕たちは二人だけで歩き始めた。空には雲一つなく、ますます強くなってきたように感じる陽射しが、街に降り注いでいた。通り過ぎる家の庭に生えている木の緑や、プランターに咲いている花は、陽光を気持ちよさそうに浴びていた。取り立てて珍しい光景では全くないけれど、その時の僕には、それらの色の輝きが美しく見えた。知らない景色に包まれて、五感の感度が、普段よりも高くなってきているような感じもしていた。
「退屈じゃない?」
ふと、歩きながら、彼女は僕に訊ねてきた。
「うん。全然。なんで?」
「このあたりは、わたしたちの地元と、そこまで違った街並みってわけでもないから」
「確かにそうだけど……。でも、頭がはっきりしてくるような感じがするよ」
すると「なにそれ」と、彼女は言って小さく笑った。
「なんか新鮮で、気持ちいい感じ。この辺りに住む人たちにとっては、なんでもない景色なんだろうけど」
「そっか。ならよかった」
彼女はなぜか満足そうに言って、小さく頷いた。それから、続けて尋ねてきた。
「岸本君は、昔から絵を描くのが好きだったの?」
うん、と僕は言った。
「それで、習い事をさせたがってた親が見つけてきた絵画教室に小学生一年生の頃から通ってたんだ。もう辞めちゃったけど、そこで過ごしてる時間は結構好きだったな」
「普段も絵を描いたりしているの?」
「最近は、あんまり。でもたまに、とても描きたくなるときがあって、そういうときは、集中してずっと描いてる」
「描きたくなるとき?」
僕は頷いた。
「なんていうか、胸の奥が痺れてくるようなときがあって。なんでそういう気持ちになるのかは自分でもよくわからないんだけど、たまに、何でもない景色が普段とは違って見えるときがあるんだ。そういうときにすごく絵が描きたくなる」
ふうん、と彼女は、何かとても興味深そうに、ニコニコしながら相槌を打った。
いつの間にかまたひどく個人的ことを話してしまっていたと、僕はふと思った。なんだか恥ずかしくなってきて、「なに?」と僕は、話題を逸らすように、多少冗談めいた口調で言った。
「なんでもないよ」と、彼女は悪戯っぽく言った。
そんなふうにしているうちに、僕は少しずつ川野と二人で知らない街にいるという状況に慣れてきた。意識してしまって会話が不自然になってしまうことはなかったし、多少話が途切れても、その沈黙が気になることはなかった。
やがて僕たちは鎌倉駅の前を通り、大きな赤い鳥居を抜けて小町通りを歩いて行った。そこは賑やかな商店街で、いろいろ店が並んでいた。僕たちは、川野が教えてくれた店で、いくつかの手頃な値段のお菓子を買って食べた。
僕と川野は鎌倉市内を歩きながら、いろいろな話をした。
学校のことやそれぞれの家のこと、僕たちが住んでいる街のこととか、そういうどうでもいいような話題ばかりだったけれど、楽しかった。
地元からは、電車でたった二時間ほどの距離しか離れていないのに、それでも、いつもの日常から遠く離れているような感覚があった。そして、不思議なことに、知らない街で一緒にいる川野は、学校で隣り合って座っているときよりもずっと、身近に感じられた。
数時間かけていくつかの寺院や公園を訪れたあと、僕たちは線路沿いの道を歩いた。まだまだ空は明るかったけれど、午後の四時を過ぎて、少しずつ陽が落ちてきていた。ほんのわずかにだけれど、一日の終わりの気配が西日に漂い始めていた。
この日は、時間の進み方の感覚が普段とは違った。いつもよりもずっと濃密で、ぎゅっと凝縮されているような時間だった。一日をとても長く感じていた小さな子供のころの感覚に、それは似ていた。
僕たちは、例の川野が絵に描いた場所を目指していた。今日の最後の目的地だ。そこへ行ったあとの予定はもうない。川野は親戚の家へ行き、僕は電車に乗って地元の街へ戻っていく。
その道を歩いている間、僕たちの口数は減っていた。僕たちはただ歩調を合わせて、彼女が絵に描いた場所に向かっていた。アスファルトの舗道には、木々や電柱の影に混ざって、僕たちの二つの影も、道路に伸びていた。
やがて、川野は立ち止まって言った。
「ここだよ」
数十メートル先に踏切の見える、周囲に並ぶ木立の緑色がとても鮮やかな通りだった。僕も、その場所で立ち止まった。彼女が美術の時間に描いていた風景が、今現実に、目の前に、広がっている。
「どう?」と川野は首を傾げるようにして尋ねた。
「たしかに、描きたくなる景色かも」
頷いて、僕はあたりを見渡した。小さな踏切、濃い緑色の葉を茂らせた木々と木漏れ日、輪郭の曖昧な影、黄色の目立つ遮断機と警報機。
そして、その風景を見ているうちに、胸の奥が痺れるような感覚が、少しずつ湧きあがってきた。絵を描きたくなるときにいつも感じる、例の感覚だ。
近くに、ちょうど木陰に入っている青く塗装された小さなベンチがあった。僕はそこに腰かけて、背負っていたリュックからスケッチブックと鉛筆を取り出した。それから、その景色を描き始めた。
川野も僕の横に座った。僕が絵を描いている間、彼女はペットボトルに入った飲みものを飲みながら、僕の手元を眺めていた。
ひどく暑い日だったけれど、意外なほど木陰は涼しく感じ、吹き抜けていく風も気持ちが良かった。風が流れていくのを身体で感じながら、僕はその風景を木漏れ日が揺れている紙の上に描きとめていった。
僕も川野も、しばらくは無言のままに時間を過ごしていた。けれどあるときふと、
「才能あるよ、岸本君」
と川野が言った。顔を上げると、彼女は膝の上で飲み物を持ちながら、少し身を乗り出すようにして僕の手元に視線をやっていた。
「いや。大げさすぎ」
僕は手をとめて、苦笑しながら答えた。
「あるって」
「僕よりも絵が上手い人はたくさんいるよ」
「そうかもしれないけど。でも、きっとあるよ」
川野は楽しそうな微笑みを浮かべながらそう言って、姿勢を戻した。自分に絵の才能があるかどうか(言い換えれば、自分が特別な人間かどうか)なんていうことを考えるのは、当時、絵に対する思い入れがまだそれほど強くはなかった僕にとっても、少なくない重みを感じることだったけれど、川野のその気楽な――軽やかな言い方は、なぜかとても心地よかった。そうだったらいいな、と、素直で、こだわりがなくて、楽しげな感覚で、僕は思った。
僕はまた作業に戻り、線を重ねていった。その後も彼女は僕の隣に座って飲み物を飲んだり、僕の手元を覗いたり、僕が描いている風景を眺めたりしていた。
そのとき、僕ははじめて自分が絵を描ける人間でよかったと感じていた。少なくとも、その技術を多少なりとも持っていてよかったと思った。僕よりも上手い人がいるとか、才能のある人がいるとか、そんなことは全く関係がなかった。ただ自分のなかの深いところから湧いてくる充実感とともに、僕はその風景をなぞっていった。
5
スケッチを描き終えて、「大体出来たよ」と僕が言うと、「ほんと?」と川野は嬉しそうに反応した。
「うん。こんな感じ」
僕は、スケッチブックを川野に手渡した。彼女はそれを、にこにこしながらじっくりと眺めていた。
彼女が絵を見ている間、僕は描いた場所の写真をスマートフォンで何枚か撮っておいた。充分に綺麗に映っているとは思ったけれど、その写真に見える景色は、どうしてか、肉眼で見ているものよりも、あるいは僕が鉛筆でスケッチしたものよりも、味気なく見えた。
やがて、ありがとう、と言って川野が僕にスケッチブックを渡してきた。僕はそれを受け取り、リュックに仕舞って、椅子に座り直した。それから、僕は彼女にお礼を言った。とても楽しい一日だったから、その言葉はとても自然に出てきた。
「今日はありがとう。楽しかった」
「うん。なら、よかった」
彼女は頷いて、穏やかな笑みを浮かべながら、そう答えた。
もうそろそろ、五時になろうとしている。この日の予定は、もう終えた。今日はたくさん歩いて、足も疲れていた。きっと川野も疲れているだろう。けれど、僕はなかなか帰ることを切り出せなかった。会話は途切れ、沈黙が降りた。何も話さないままに、時間が流れていった。
僕は、僕と川野の影を見ていた。そのまま地面に固着してしまいそうだと感じるほど濃い影だった。どれほどの時間、僕たちは黙っていたのだろう。いつの間にか、西日に赤色が混ざりはじめてきていた。
ふいに、「ねえ」と、川野が言った。
その声に僕は顔を上げて、彼女の方を見た。彼女も僕のほうを見ていたから、僕たちはとても近い距離で顔を見合わせることになってしまった。
「なに?」
僕が尋ねると、彼女は「えっと」と口ごもった。そのときの彼女の表情には、どうしてか、強い緊張や不安が漂っていた。そんな彼女を見ていると、僕の方まで何か胸がどきどきしてきて、不安な気持ちになってしまった。
初めて経験するその不思議な感情に戸惑っていると、唐突に、踏切の警報機の甲高い音が響き始めた。
その音に、彼女は驚いたように踏切の方へ視線を向けた。そしてそのあとで苦笑して、小さく首を振った。それから弱く吹いていた風を吸い込むように深く息を吸い、言った。
「なんでもない、ごめんね」
そのすぐあとで、大きな音を立てて、電車が踏切を通過していった。少しして音とともに電車が遠ざかっていくと、踏切の音も止み、再びあたりが静かになった。
それからまた彼女は言葉を続けた。
「岸本君のさっきのスケッチなんだけど。これから絵を塗ったりして、ひとつの作品として仕上げたりするのかな」
そう言ったときの彼女は、表情も、発している雰囲気も、いつのも彼女のものに戻っていた。
「うん。そのつもりだけど」と、僕は答えた。
「そう。それならいいの。きっと、すごくいい絵になるよ」
そう川野は言った。どうしてかとても嬉しそうな表情をしていた。それから、彼女は自分のスマートフォンを見た。そして、それをすぐにまたポケットに仕舞いながら、
「もうそろそろ帰らないと。家に着くの、遅くなっちゃうよ」
と、柔らかな笑みを浮かべながら言った。斜めに差していた西日で、彼女の黒い髪の輪郭は金色に光って見え、顔には深い陰影が出来ていた。
「そうだね」と、僕も頷いた。
僕たちはベンチから立ち上がり、ゆっくりと、近くの駅に向かって歩いた。草木も、建物も、人も、すべてが赤みを帯びた夕陽を浴びて、優しい色合いに染まっていた。はじめて訪れた街なのに、その風景はなぜか懐かしいような感じがして、僕は家に帰っていくことを切なく感じた。
最後に駅の改札口で川野と別れの挨拶を交わし、僕はひとり電車に乗って、自分が住む街まで帰った。電車に乗っている間に、空の濃い赤色は徐々にその明るさを失っていき、夜の暗さが、窓の外を覆い始めていった。
僕は車両の隅の席に座り、弱くなっていく夕陽に染められた街並みを、窓越しに眺めていた。その間ずっと、この日川野と過ごした時間と見た景色が、例の胸の奥が痺れてくるような感覚とともに、頭に浮かび続けていた。
僕はそれから、川野と見た景色を絵に描くことに残りの夏休みの時間を費やした。
夏期講習以外の時間、僕はずっと自室で絵を描いていた。その間、これまで経験したことがないくらいに深く、僕は絵を描く作業に意識を集中していた。
八月の末近くになって絵が完成すると、僕はそれに『踏切のある街』というタイトルをつけた。そしてそれを、夏休みが終わるまでの数日間、部屋のなかに飾り、八月三十一日の夜に、押し入れのなかにそっと仕舞った。
どうしてその絵を仕舞ったのかは、未だにうまく整理して考えることができない。ただ、そうするべきだという感じがしたのだ。もしかしたら、その夏休みの記憶とともに、僕はその絵を閉じこめておきたかったのかもしれない。
とにかく、その絵を仕舞ったときに感じていたのは、その夏が終わってしまうことに対してのいくぶんの切なさと、それから、とても深い、達成感のような感覚だった。
その絵が完成したとき、僕は何かを達成した、という感覚を覚えた。もちろん、中学生が描いた絵だから、技術的には拙い。ひとつの絵画作品としての完成度はお世辞にも高いとは言えない。
けれど、その『踏切のある街』に、僕は自分のなかの何かを宿すことが出来たという感覚があった。
あれから今に至るまで、絵を描くときにあの時ほど深い集中力と満足感を得たことはなかったし、あそこまで強く純粋に何かを描きたいという衝動を覚えたこともなかった。
☆ ☆ ☆
『踏切のある街』は、今までのところ、僕以外の誰にも見せたことがない。その風景のある場所まで僕を連れて行ってくれた川野にもだ。書いているときは、完成したら彼女に見せようと思っていた。けれど、その機会は訪れなかった。
奇妙なことに、夏が終わって二学期が始まってからは、僕たちの関係自体が変わってしまっていたのだ。
始業式の日に、久しぶりに顔を合したとき、もうすでに、僕たちの間には、妙なぎこちなさがあった。
言葉を交わしても、不自然な間が出来たり、うまく話題が広がらなかったりした。沈黙の間、僕は気恥ずかしさや焦りのようなものを感じ続けていた。
どうして会話の感覚がつかめないのだろう、と僕は奇妙に思った。お盆頃に会ったときだって、二、三週間ほどの間隔があってからの再会だったのに、あの時には、こんなふうに上手く言葉が出てこないなんていうことはなかった。
時間が経っても、その緊張感がとれることはなかった。むしろ、日を経るごとに僕はひどく強く彼女を意識してしまって、さらに不自然な緊張感は増していった。彼女の方からも、僕と同じようなぎこちなさを感じた。
どうしてなのか、そしてそれにどう対応すればいいのか、その時の僕にはわからなかった。以前のように川野と話したかったのに、どうしても、その気まずさや緊張は取れなかった。
そうこうしているうちにすぐに一週間ほどが経ってしまい、学期の初め頃に行われていた席替えによって僕と川野の席は離れた。そして、まったく言葉を交わさない日々が、どんどんと過ぎていった。夏が遠ざかっていくにつれて、僕と川野が親しくしていた二ヵ月ほどの感覚は、急速に薄れてきてしまった。美術の時間中に彼女と並んで絵を描いていたこととか、鎌倉に連れて行ったもらった日のこととか、そういうつい最近確かにあったはずのことを、不思議なほど遠い過去のことのように感じるようになってしまっていた。
けれど、冬の初め頃、一度だけ川野と二人で言葉を交わしたことがあった。提出物を出しに職員室まで行ったときに、廊下でばったりと川野と出くわしたのだった。
あたりにひとけはほとんどなかった。遠くに数人の生徒が見えるだけで、とても静かで、久しぶりに僕たちは二人だけで向き合った。
あ、と川野は僕に気づくと言った。僕も、二学期になってから感じ始めた緊張のようなものを覚えながらも、小さく会釈をした。
沈黙のなか、遠くから部活をしている生徒たちの掛け声が聞こえてきていた。何か話さなきゃ、と思って言葉を探していると、ふいに川野が、
「あの絵、完成した?」と、僕に訊ねてきた。
久しぶりの彼女との会話で、僕は咄嗟にうまく返事をすることが出来なかった。少し間が空いたあと、やっとのことで、「うん。出来たよ」とだけ、僕は答えた。
しかし、それに言葉を続けることは出来なかった。
僕はあのとき、『今度見せるよ』とでも、彼女に言うべきだったのだろうと思う。しかし、気恥ずかしさや、胸の底の方から湧き起こってくる正体のわからない不安のようなものが邪魔して、たったそれだけの言葉が、出て来なかった。
僕がそれきり黙っていると、
「よかった」
と、川野は言った。そう言ったときの彼女の顔には、安心したような、それから少し寂しそうな笑みが浮かんでいた。
そして、数秒ほどの沈黙のあとで、彼女は、「じゃあ、またね」と言い残して、踵を返してしまった。
今思えば、僕はあのとき、彼女に『踏切のある街』を見せることを恐れていたのだと思う。
その絵にはあまりにも大切な何かが宿ってしまっていて、作品に対する彼女の反応が怖かったのだ。もし彼女が、僕が期待しているような反応をしてくれなかったら、自分がその絵に込めた大切な何かが傷ついてしまうのではないかと思ったのだろうと思う。
あの時は、自分が描いた絵にそんな気持ちを持つことが初めてだったから、今のようにその感情を分析することも、それをどう扱い、どう自分の中で整理するかなんてことを考えることも、全くできていなかった。ただ、得体の知れない不安感に戸惑っていただけだった。
あの別れ際の川野の寂し気な笑みは、それからことあるごとに僕の脳裏によみがえり、僕はそのたびに、当時の自分の対応を後悔することになった。
そして、その後悔の気持ちとともに、僕は本当には、川野にあの絵を見てもらいたかったんだと、強く思った。
もしあそこで川野に絵を見せていたら、それから今までの僕の人生はまた別なものになったんじゃないか、とまで思うことがある。
『踏切のある街』を見て喜んでくれている彼女の姿が、胸の痛みとともに頭にちらつくことも、たまにあった。そんな気持ちや想像が、たぶん、今日の朝みたいな夢を未だに見る原因になっているのかもしれない。
☆ ☆ ☆
川野と二人きりで言葉を交わしたのは、結局その中学二年生の秋が最後だった。三年のときには僕たちは別のクラスになり、学校内で見かけることすらもほとんどなくなった。
卒業が近づいてきたときに噂で耳に入ってきた川野の進学先は、僕とは別の高校だった。
そのことを知ったとき、僕は自分でも驚くほどに深い寂しさを感じた。このまま別れていいのだろうか、という気持ちが強く芽生えた。
しかし、だからと言って、その時の僕にはどうすることもできなかった。今さら川野にまた近づいていくための上手い方法なんて何も思いつかなかったし、その度胸もなかった。そもそも、何をどうしたかったのかすら、わからなかった。だから結局、中学の卒業式の日が、僕が川野を目にした最後の日になった。
僕が感じていた寂しさは深く、二週間ほどの春休みを経ても、消えることも弱まることもなかった。僕はその気持ちを抱えたまま高校に入学し、そして美術部に入って、本格的に絵を描き始めた。そのとき、もう絵を描くことは僕にとって特別な行為になっていたし、『踏切のある街』を描いたときのような充実感をまた味わいたいという、ほとんど渇望のような、強い気持ちもあった。
放課後の時間のほとんどで、僕は絵を描いていた。他に、興味をそそられることもなかったし、恋愛をすることもなかった。毎日、僕はキャンバスに向かった。多くの作品を、その三年間で描き上げた。技術的な進歩もあり、何度か賞に入選することもあった。けれど、十四歳の夏に味わったものを超える手ごたえを感じたことは一度もなかった。
高校卒業後の進路に、僕は芸術を専門とする大学・学部を選ばなかった。その理由は本当にいろいろとあるけれど、一言で言えば、絵を描くことに疲労し、消耗している自分に気がついたからだった。自分のなかにある創作のエネルギーの多くを使い果たしてしまっているような気がしたのだ。この先の大学生活で、あるいは人生で、これまでと同じように、同じような情熱で、絵を描き続けている自分を、うまく想像できなかった。要するに、描きたいという気持ちが自分のなかで弱まっているのを感じたのだ。
高校に入学したころにあった強い気持ちは、進路選択を目の前にした時期には、もうかなり、弱くなってきてしまっていた。
その感覚は、悲しいものだった。けれど、自分の気持ちと努力でどうにかできる類いのものでもなかった。だから、もし、また描きたいときが来れば描けばいいと、自分に言い聞かせて、僕はしばらくの間、絵筆を手放すことにした。
そして、その時から今に至るまで、僕は例の一枚の抽象画以外には、絵を描いてはいない。
6
大学から自宅に戻ると、僕はノートパソコンを開き、メールの受信トレイを開いた。新着のメールに、人材紹介会社が主催する模擬面接セミナーの予定についてのメールが届いていた。
特に関心のあったものではない。けれど、就職活動が本格的に始まりつつあるタイミングで、なんとなく周りの空気に流されて応募したものだった。
僕はぼんやりと、予定されている日時と場所を確認して、そのままメールの最後の方に載っていた『これだけは覚えておきたい面接のコツ』と書かれているリンク先にアクセスした。
そこには、面接のノウハウがまとめられた記事があり、面接官に好印象を与える笑顔の作り方や話し方、よく聞かれる質問とそれへの回答例などが、装飾的に添えられている爽やかなスーツ姿の女性の写真とともに記述されていた。
上から順に目を通して行こうとしたものの、それらのポイントはあまりに細かく(おじぎの角度やらノックの回数やらネクタイの色やら声の張り方やら)、また全体的にも欺瞞的な態度を推奨しているように感じ、だんだんと苛立ちが募ってきて、最後にはバカバカしくなって読むのをやめた。
僕はブラウザを閉じた。
なんで、こんなものに応募してしまったのだろう。
なんとなく自己嫌悪の感情が芽生えてきて、深いため息が出た。
そしてふと、今みたいなあやふやな状態で生きていたら、この先もこんなことの連続になってしまうのではないか、と感じた。意味も価値も見出すことが出来なさそうな物事に神経を使い、今よりもさらに深く決定的に、何かを損なってしまうのではないか。そんな気がし、ひどく憂鬱な思いがした。
そして、重苦しく自分の内側に向かっていく思考は、こういうときには常にそうであるように、『もしあの時、僕が川野に、自分の描いた絵を見せていたら』という思いに行き着く。
頭では、もちろんわかっている。
そんなことは、夢想的すぎる考えだ、と。現実は、ほとんどの場合おいてひどく味気のないものだ。一瞬にして人生を変えてくれるような出来事が用意されていることなんて滅多にない。
自分が青春を失いつつあるということから来る感傷が、そんなことを考えさせているだけだ。
僕は自分にそう言い聞かせた。気分を変えたかった。しかし、この喪失感と憂鬱は、なかなか去ってくれそうになかった。
重いため息を吐いて、首を回した。すると、壁際に立てかけられている、大学生になってから一枚だけ描いた絵が視界に入った。
ひどい退屈と停滞感に満ちた二十歳の夏休みに、雑誌か何かで見た若手の画家の作品に刺激されて描き始めた絵だった。絵から離れても、どこかに残り続けていた焦燥感と、ほのかな対抗心のようなものに駆られながら、その時の僕は、自分の感覚を試すように、思い浮かんだ色彩と形状を描いていった。
久しぶりに絵筆を握ってみたものの、充実感も、あるいは、何かの回復の兆候のようなものも、見出すことができなかった。むしろ、自分が確かに消耗してしまっているということを、改めて思い知らされただけだった。残り少なくなっていた自分の創作のエネルギーを、どうにかして絞り出していく。そんなふうにして、僕はこの絵を描いた。描き上げたときに感じたのは、充実感ではなく、疲労感だった。
それから今日までの大学生活で、僕は一度も絵を描かなかった。描こうともしなかった。ただ大学の講義を聞き、本を読み、いくつかのアルバイトをして過ごしてきた。
それは楽だったし、それなりに楽しい瞬間もあるにはあった。けれど、満たされるような感覚も、何かに向かって進んでいるという感覚も味わうことはなかった。
思い返せば、十代後半から今までの時間は、まったく無為に過ぎてしまったような気もする。
そう考えると、さらに気分は落ち込んだ。僕は再び、大きく息を吸い込んだ。どれだけ空気を吸っても、どこか息苦しさが残るような気分だった。
僕は部屋の明かりを消し、ベッドに横になった。寝るには早い時間だったが、何かをする気力が失われていた。窓の外の明るさが、微かにカーテンを透かしている。僕はそのわずかな光のなかで天井を見つめていた。
☆ ☆ ☆
まどろんでいるうちにいつの間にか夢を見ていた。
踏切が近くにある場所に僕はいて、ベンチに座わり、遮断機の上がっている踏切とその周りの風景を描いていた。そばには川野もいた。十四歳のころの彼女だった。白いTシャツを着て、茶色のショートパンツをはいている。肩まで届くくらいの長さの髪が風に揺れていて、何かに興味を示しているような微笑を浮かべていた。
「ねえ、何を描いてるの?」
川野が、横から僕に訊ねてきた。
「絵を描くのは、もう辞めたんじゃなかったの?」
焦燥を感じながらも絵に意識を集中していた僕はその言葉で我に返って、一度手をとめた。手元から顔を上げて、彼女の方を見た。川野は、不思議そうな顔をしていた。
僕はすぐに答えを返すことが出来なかった。言葉が思い浮かばなかったのではなく、瞬時に様々な感情と言葉が湧きあがってきて、一体何から説明したらいいのかわからなくなってしまったのだった。
僕は、自分の内側で混沌としながら漂っている言葉にし辛いものをなんとか言葉にしようと考えたあとで、言った。
「自分の目の前に広がっている世界が色あせていくように感じてしまうことが、最近増えてきたんだ」
川野は少し首を傾げた。無言だったけれど、視線で続きを促していた。僕はまた言葉を探しながら話した。
「そういうとき、無性に自分の感覚を確認したくなるんだ。自分にはまだ美しいものを見つける力が残っているのかどうかとか、それを描けるかどうかとか……」
彼女は、考え込んでいるような表情のまま、そうなんだ、とだけ、ぽつりと言った。納得したのかどうかはわからなかったけれど、それ以上、彼女は問いを発しなかった。
僕は、再び絵に向かった。その踏切の近くの景色を、焦燥感とともに、スケッチブックに描き続けた。しかしどれだけ描いてもその焦燥感は募り続け、僕はやがて息継ぎをするように手を止めて、顔を上げた。
そのとき、
「君はきっと……」
と、川野が独り言のように言った。
僕は反射的に注意を彼女に向けた。するとその直後に、踏切の警報音が響いてきた。その大きく甲高い音はあたりを覆い、僕たちのまわりの言葉や音をかき消していった。
――そうだ、と、その音を聞いたとき、唐突に僕は気がついた。その瞬間、狭いところに閉じ込められていた意識が急に広がって、俯瞰性を持ちはじめた。
――夢のなかで響き始めたこの踏切の音で、今朝、僕は目を覚ましたのだった。
これは夢なのだと気がつくと、瞬く間に夢の情景は薄れて消えていった。そして、意識は夢の世界から現実に戻ってきた。僕は瞼を開け、身体を起こした。ひどく静かで暗い、時間の見当もつかない深い夜だった。
目覚めた直後で、現実感がまだあまりない。夢の世界とこの現実の世界が、なんだかまだすぐ近くにあるような気がした。僕は見ていた夢の情景を思い起こした。
『君はきっと……』
何かを言いかけた川野の声が頭をよぎる。あの先に彼女は何を言おうとしたのだろう、と僕は思った。
しかし、考えるまでもないことだった。それは、僕が押し殺していた言葉だ。それがきっと、僕の見る夢のなかで、彼女の姿と声を借りて出てこようとしたのだ。
きっともうずっと前から、僕の心の深いところに、その言葉はあった。でも僕は、いつもそれらを抑圧し、目を逸らそうとしていた。それを直視することは、自分の弱さを見るのに等しかったから。
いつのまにか、僕はひどく深く、自分の内面に意識を集中してしまっていた。いろいろなことが頭に浮かんでは消えていった。
どれくらい、時間が経っていたのだろう。ふと、僕は瞬間的にある計画を思いついた。それには、自分の内側の深いところから湧き上がってくるような衝動が伴っていた。
僕のなかの理性的な部分では、その思いつきは、あまりにも無意味で馬鹿げたことだと思えた。しかし僕にはもう、自分がそれを実行しているイメージしか、持つことが出来なくなっていた。
☆ ☆ ☆
次の日、昼過ぎの電車に乗って、僕は十四歳の夏に彼女と訪れた街を目指した。
雲はまだ空に居残っていて、この日も朝から薄暗かった。空気も冷えていたので、僕はニットの上に、薄手のコートを羽織って出掛けた。
平日の午後だったから乗客はそれほど多くなく、余裕を持って座席に座ることが出来た。窓の外に見える景色は灰色だ。曇り空も、立ち並ぶコンクリートの建物も、同じような灰色をしていた。
電車に乗ったとき、ふと我に返るような思いで「僕は一体何をやっているのだろう」と思った。
今やっていることは、人には説明しづらい、ひどく個人的で変な行動だ。
電車に揺られながら、僕はしばらく、なぜ今自分がこんなことをしているのかについて考えてみた。しかし結局、それらはうまく言葉にはできなかった。合理的な説明の出来ることじゃない、ただの衝動だった。
僕は、電車の窓の向こうの、灰色の目立つ、色彩の乏しい曇りの日の景色を見つめていた。上空は厚い雲に覆われていたけれど、遠くの空には明るさがあった。電車がいくつもの街を通り過ぎていくにつれて、次第に僕はその晴れた空の下に近づいていった。
7
目的地に着いて駅を出ると、雲には大きな切れ目ができていて、そこから光が見えた。それほど長く曇りの日が続いていたわけではないのに、なんだか、久しぶりに眩しい太陽光を見たような気がした。その明るさが目に染みて、僕は顔をしかめた。
七年ぶりに訪れたその街の印象は、僕の記憶にあるものとは、がらっと変わっていた。すでに木の葉が散り始めるような季節になっていた今の風景と、かつて見た、緑色の鮮やかな真夏の風景とは、大きく、色彩の印象が違った。けれど、街並み自体がそれほど大きく変わっているわけではなかったので、しばらく歩いているうちに、僕は次第に、あの日の感触を思い出し始めた。ほとんど忘れかけていた、道中で川野と交わした何気ない会話とか、彼女の仕草とか、あの日の午後の暑さの感覚とか、そういうものが、いくつも脳裏に過っていった。
僕は、『踏切のある街』のスケッチをした場所を目指して歩いていた。その場所は、僕が降りた駅のすぐ近くだったため、十分もしないうちにそこに辿り着いてしまった。あまりにもあっさりと、辿り着いてしまった。
あの日、僕たちが座っていたベンチは、当時と同じ場所で、ほとんどそのままに残っていた。多少塗装の色が薄くなっているような気はしたが、それ以外に違いは感じなかった。
そのベンチの前で僕は立ち止まり、あたりを眺めた。数十メートルほど離れたところにある踏切、通りに植えられている木立。
それらを眺めていると、胸の底で、なにかが疼いた。この場所で、川野の隣に座ってスケッチをしていた時の感覚が蘇ってくるような気配がしたのだ。しかしそれはあまりにも曖昧な感覚で、放っておけばすぐに掻き消えてしまいそうだった。僕は目を閉じて、その感覚に、意識を集中しようとした。
そのときだった。突然、踏切の警報音が響き始めた。
内面の深いところに向かっていた僕の意識が引き上げられ、反射的に、僕は目を開けて踏切の方へ視線を向けていた。夕暮れの光を浴びて、何人かの人が、遮断機の前で立ち止まっている。そのなかには一人の若い女性がいて、ふと、彼女に視線が引きつけられた。
長い髪を薄く茶色に染め、白のロングスカートをはき、セーターを着ている。見覚えはない。しかしなぜか、彼女が纏っている雰囲気に、妙に引かれるものがあった。
まさか、と直感的に思った。
だがすぐに、首を小さく横に振った。バカなことを考えるな、自分の幻想を投影しているだけだと僕は自分に言い聞かせて、その思いをかき消そうとした。
けれど僕は依然として、その女性の姿から目を離すことが出来なかった。
しばらくすると、電車が大きな音を立てながらやってきた。そして踏切を通り過ぎ、遠ざかっていった。電車の姿や音が小さくなると踏切の音がふつりと途切れ、遮断機が上がった。
彼女は、周りにいた数人の人たちと共に歩きだし、その姿が、夕方の赤く薄暗い街の奥に消えていった。
僕は、しばらく、彼女が消えていった景色を眺めていた。そしてふと、さざ波のように、小さく胸が騒ぎ始めているのを感じた。先ほど、曖昧に感じていたものに似た感覚だった。それが、どんどんと、大きくなってきている。
最初、僕はその感覚の正体が何なのかわからず困惑した。けれどすぐに、それが絵を描きたくなるときにいつも感じていた感覚だと自覚した。そしてそのときには、僕はもうすでに近くにあったベンチに座って、荷物に入れていた紙と鉛筆を取り出していた。
ほとんど無意識の行動だったが、自分がなにをしようとしているのかがわかってからも、僕はそれを止めようとはしなかった。秋の、沈みかけた太陽の赤い陽射しと、すぐそばに立っていた街灯の光のなかで、その衝動のままに手を動かし、風景の輪郭を紙になぞっていった。
線が増え、絵が描き進められていくにつれて、胸の痺れはますます増幅していった。それはどこか深いところから湧きあがってくるもので、弱くなりそうな気配は全くなかった。それは、時間を忘れるほどの集中力を、僕にもたらした。
とても懐かしい感覚だった。
僕の前を通り過ぎていく人たちが物珍しそうに、僕自身と、僕が描いている絵をちらちらと見ていった。けれど僕はそれにまったく構わずに、線を描き続けた。自分のなかから湧き上がってくる力に身を任せて、絵に集中していた。
ひたすらに線を重ね、気がつけば、一時間近くが経っていた。スケッチブックに描かれた絵を見ながら、僕は大きく息を吐いた。その呼吸の深さで、今までどれだけ自分がその作業に没頭していたかを実感した。そして、自分にまだこれほど創作に集中する力があったということに、驚いていた。すでに消耗し、そのほとんどが失われたものだとばかり思っていたのに。
その時だった。
「上手ですね」
そんな言葉が、僕の頭の上から降ってきた。
顔を上げると、踏切の向こう側へ消えていった女性がそこに立っていた。先ほど見かけたときには持っていなかった何かの包みを腕に抱えているが、間違いなく彼女だ。
古い街灯の光に照らされている、僕と同年代くらいのその人は、なにか懐かしいものを見るような、優しい顔をしていた。
髪型も違う。化粧もしている。表情も、身にまとっている雰囲気も、僕の記憶のなかにある彼女のものよりも、ずっと大人びている。しかし、彼女が発した声は、僕の記憶を刺激した。僕は、その女性が、川野に似ていると思ってしまった。
僕は混乱した。自分が空想の世界に入り込んでしまったかのように思えた。過去と妄想に囚われて、とうとう頭がおかしくなってしまったのかもしれないとも思った。あるいは、また、妄想みたいな夢を見ているか。
けれど、「夢なら夢でかまわないじゃないか」と思った。どうせ夢ならすぐに覚める。今までずっとそうだったように。
僕は一度、冷たい空気を吸って、動揺した気持ちを落ち着かせようとした。空気が肺に入っていくひやりとした感覚が心地よかった。
僕は、いくつもの感情が混ざり合った息をひとつだけ小さく吐いた。それから、彼女を見ながら言った。
「中学生の頃、同じクラスの女の子とこの街に来たことがあるんです。ちょうど、ここに座って、ここから見える風景を描いていました。その時のことを最近よく思い出していて――。それで、ふと思い立って久しぶりに来てみたら、なんだかまた、絵に描きたくなったんです」
僕の言葉に、彼女は口を小さく開けて、驚いたような表情を浮かべた。彼女は何かを言おうとしているように見えた。けれど、また突然、甲高い踏切の音が響き始めた。
彼女は、その大きな音にびくりと反応し、踏切の方へ顔を向けた。それから、再び僕の方に視線を向け、微笑みを浮かべて、少しだけ開いたままだった口を閉じた。
僕も踏切を見た。夕方の薄暗さのなかで赤みを帯びた光を浴びる遮断機や警報機、足止めをくっている人々、赤や茶の深い色の木の葉と木立、その向こうに見える、夜の色に近い紺色の空……。十四歳の夏に見た景色の色彩とは違う。しかし、今僕の前の広がっている景色も、強く、僕の胸を痺れさせた。
僕は、また手元に視線を落とした。描き上げたばかりの絵が、そこにある。そしてその時、
『君はきっと、またあのときみたいに絵を描きたいんだね』
意識の底から、夢の世界からの響きのように、そんな言葉が、川野の声で響いてきた。
踏切の音が響くなか、そうだよ、と僕は、小さな声で言った。
たったそれだけのことなのに、それがずっと、ひどく難しかったんだ。
単調なリズムの踏切の警報音が、甲高く響き続けている。彼女はまだ立ち去らず、踏切の方を見つめ続けている。
そんな彼女の横顔を見ていると、十四歳の頃に言えなかった言葉たちが、いくつもいくつも、頭のなかに浮かんできた。
もし、この人がかつてこの場所に僕を連れてきてくれたあの女の子だったとしたら、と僕は思った。
今度こそ、あの時に言えなかった言葉も、その後で言いたかった言葉も、伝えよう。
そう思いながら、僕は踏切の音が鳴り止むのを待った。
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