曇りの夕方だった。夕方といっても、もうほとんど夜に近かった。光がゆっくりと衰え、景色が灰色に染まってゆく。海岸には、僕と彼女以外、誰もいない。周期的な波の音がするだけだ。
「寒いね」
彼女は柔らかそうな白いマフラーに顎をうずめた。冷たい冬の風が海の向こうから吹き付けてきて、僕たちの身体を冷やし、彼女の長い髪を靡かせて、どこかへ去っていった。
「もうそろそろカフェにでも行きましょう?」
彼女が首を傾げるように僕の顔をのぞき込んだ。
うん、と僕は頷いた。しかし動こうとしない僕に、彼女は小さくため息を吐いた。
「もう。あんまり長くいると、体が冷えて、風邪ひいちゃうよ」
そう言いながらも彼女は砂浜の上に腰を下ろし、両手を組み合わせ、吐息を吹きかけている。僕もその隣に座った。雨の日に植物を濡らす無数の雫のように、波の音は僕の胸を洗っていくような気がした。灰色の空は、どんどんと夜の暗さで世界を覆いつつある。金属を思わせるような、硬質な冷たさをもつ空気があたりに漂い、喉を通り肺に至り、僕とその冷ややかさは一つになり、再び血が身体を温め、また空気が冷やし……。波のような周期性を、体に感じる。
「星は出そうにないねえ」
彼女が、空を見ながら言う。
「そうだね」
僕は答え、立ち上がった。
そして、海へ向かって歩き出した。泡立っている波打ち際の海水に触れる。寒さに凍えた僕の指先よりかは、暖かかった。いつの間にか空はもう真っ暗になっていた。海も空も一つの巨大な闇になっていた。
「なーにしてるの?」
背後から、彼女の不思議そうな、そしてどこか歌うような調子の声が届いた。
「生暖かい」
と、僕は言った。
「海水が?」
ふわりと、彼女の髪と服の柔らかく甘い匂いがした。彼女は僕のすぐ近くにしゃがんで、打ち寄せてきた波に、そっと撫でるように触れた。
「ほんとうだ。なんともいえない生暖かさ。なんでだろ、空気はこんなに冷たいのに」
そう言って、くすぐったそうに笑った。かすかに八重歯がのぞき、頬に柔和なえくぼができた。海水に触れている指先を動かしながら、もう片方の手で、目にかかった髪を梳い上げてる。
「行こう」
僕はそう言った。
彼女も頷いて、海に触れていた手を軽く振って水気を切りながら、踵を返した。
歩きにくい砂浜から、街灯の灯る道路に上がった。その光に、僕たちの吐く息が白く浮かび上がる。街の明かりへ向けて歩き出す前に、僕は一度だけ背後を振り返った。海も空も一つになった巨大な闇がそこにあった。低く周期的な波の音が、そこから響き続けている。
僕はその闇の底にあるものを思った。あの生暖かい感触のした海のなか、遠く深いところに棲息している様々な姿形をした魚や、イルカやクジラのことを思った。
そこは、音のない世界。イルカやクジラたちも黙って、深い海のなかに潜んでいる。宇宙のように広大で得体の知れない、夜の海の世界。
巨大なクジラが、ふいの僕のイメージのなかに現れ、脳裏に広がった空間のほとんどを占領した。
人間などひとたまりもない巨体だ。しかし彼に敵意はない。賢者のように思慮深く、僕を見ている。暗くてどこに目があるのかはわからないが、彼は確かに僕を見ている。
彼女が、僕の手を取った。
深い深い闇のなかから、その手によって瞬時に僕は浮かびあげられた。
「どうしたの? 固まっちゃって」
と、彼女は少し不思議そうな表情で僕を見ながら言った。なんでもない、と僕は言って、再び歩き出した。等間隔に並んだ街灯の灯る道を歩いていく僕たちの背後で響きつづけている波の音が、一歩一歩進むにつれて、次第に遠く霞んでいった。
※ 随分昔に書いたものです。昔の文章を保存しているクラウドにアクセスしたときに見つけました。下手すぎた部分に少しだけ手を加えてアップしてみました。
0 件のコメント:
コメントを投稿