2020/10/04

掌編:秋の日の曖昧な記憶

 その日も細く静かな雨が降っていた。最近はずっと曇りや雨の日が続き、ずいぶんと長い間、青空を見ていないような気がした。

 僕はカフェの窓際の席に座って、夕暮れ時の薄暗い通りを眺めていた。窓に付着したいくつもの雨粒が、外の明かりを滲ませている。信号機の青や赤の色、流れている車のヘッドライトの白や、近くにある電飾看板の黄色……。それらすべてが、まるで窓の表面で弾け、混ざり合っているように見える。

 今日は一日、憂鬱な気分だった。何か嫌なことがあったわけではない。ただ少し、気分が落ち込んでいた。そういう日も、たまにはある。何に対してもあまり集中出来ず、意識が知らず知らずのうちに、自分の内側に向いてしまうような日。

 そういう時にいつもそうしているように、僕は陽が傾き出した頃、あまり賑やかではないカフェに入り、一人でぼんやりと時間を潰していた。この店のコーヒーは濃く、苦味が強かった。そしてどうしてか、今日はいつもよりもさらに、その苦味は強いように感じた。

 窓の外を見ながらほとんど無意識のうちに口にしていたコーヒーの苦さに、僕は薄く目を閉じた。するとその一瞬、僕の脳裏に、真夏の頃の、ひどく大きな夕陽と濃い影、そして空間全体を震わせているかのような蝉の鳴き声の記憶がよぎった。

 そのイメージの中心には、二十歳くらいの女の子がいた。編み上げのサンダルを履き、濃紺のショートパンツに白いTシャツを着て、ほっそりとした姿をしている。

 瞼を開けた。

 雨に濡れた窓と、滲んだ夕方の街の明かり。ガラス越しに遠く聞こえる、車の走行音。

 僕は頭を振った。口に残っていたコーヒーの後味も、記憶の気配も、すうっと消えていった。

 いったい、あれはいつの夏の記憶だったんだろう。

 彼女が出てくるということは、数年は前のはずだ。けれど、先ほどの一瞬の間に蘇った記憶は、まるで、まだ過ぎてからひと月と経っていない今年の夏のもののように鮮明だった。

 僕はカップを手に取り、再びコーヒーを一口飲んだ。苦味が、気だるさに満ちた頭を刺激する。カップをソーサーに戻すと、陶器の触れ合う音が、カタリ、と小さく響いた。

 あるいは混ざり合っているのかもしれない、と僕はふと思った。

 一月ほど前の夏の記憶と数年前の夏の記憶が、僕の頭のなかで混ざってしまったのだろう。記憶はおそらく時間の順序など関係なく、頭の引き出しのなかに無秩序に仕舞われているだろうから。ごちゃごちゃになってしまうこともあるだろう。

 僕は窓に滲む街の光をぼんやりと見続けた。陽はずいぶんと短くなってきていた。ふと気がつけば、屋外は一段と暗くなっていて、窓辺に座っている僕の姿が、うっすらと窓ガラスに映しだされていた。

 相変わらず、雨はやまない。付着した水滴が、時折、途切れがちな筋を描きながら下へ流れていく。僕の姿も、静かなカフェの店内の様子も、すべての輪郭がその窓のなかで混ざり合っていた。

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