2021/03/21

短編:秋と冬のあいだに

 秋と冬の境目って、どこにあると思う?


 高校受験を控えた十五歳の秋の日に、僕は彼女とそんな話をした。


 今でも、あの日のことは鮮明に思い出すことが出来る。十一月の冷えた夜のことで、僕がその問いを発したとき、彼女はきょとんとした表情を浮かべていた。


 あの時期、僕と彼女の関係はとても短い間に急激に変化していた。この話をしたときにはもうかなり親しくなっていたのだろうけれど、当時の僕はその変化をあまり自覚していなかった。そしてその意味についても。


 十五歳前後の頃は、考えなくてはいけないことがたくさんあった。自分自身の内側のことについても、外側のことについても、様々な問題や疑問や不安が毎日波のように押し寄せて、頭のなかでぐるぐると渦を巻き、そして気がつかないうちに薄れて消えていった。


 最初、僕にとって彼女との出来事はそんな日々押し寄せてくる問題や出来事のうちの一つに過ぎなかった。彼女に対して、いきなり特別な感情をもっていたわけではない。


 いったい、いつからだったのだろう、と僕は思う。一体いつ、彼女の存在が僕のなかで特別大きなものになったのだろう。


 考えてみても、そのタイミングがどこだったのかは、簡単に思いつきそうにはない。いつの間にか、というのが正直な実感だった。知らないうちに僕たちの関係は深まっていた。


「いつの間にか」としか、説明することが難しい。そういうことはある。あの秋から冬と間の曖昧な季節に起こった僕と彼女の関係の変化は、まさにそういう類いのものだった。

 

 〇 


 2015年、11月初旬。


 国道沿いの広い道を真っすぐに走りながら、僕は腕につけたスポーツ用のスマートウォッチを見た。ちょうど3キロを走り終えたところで、心拍数は140、タイムは16分と少しだった。百メートルほどかけて減速し歩行に移ると、息を整えるために、一度空気を大きく吸って吐いた。


 ひんやりとした冷たい空気だった。深く吸うと火照った咽喉と身体に気持ちいい。じわじわと滲み出てくる汗もすぐに引いていった。僕はゆっくりと国道沿いの道を歩き、住宅や商店の集まっている通りに入り、やがてこのあたりでは一番大きなスーパーの前を通りかかった。


 もう夜の八時を過ぎており、あまり人の姿はない。仕事帰りらしいスーツ姿の男性がひとり、ドアの向こうへ消えて行った。スーパーのドアの付近は、店内から暖色の明かりが漏れてきていて明るかった。僕は、その暖かそうな光の方を、ぼんやりと見ていた。


 するとその時ちょうど、ショートカットの女の子のシルエットが浮かび上がってきた。


 あれ? と思った。


 なんとなくその姿に見覚えがあるような気がした。歩調を緩めて、目を凝らす。

 彼女は色の薄いジーンズに、赤色の長そでのブラウスを着ていた。初めて見る私服姿だったから、少しだけ印象がいつもとは違っていた。けれど、スーパーの前の街灯や店から漏れている光に照らされた顔を見て、確信した。ショートカットの髪、感情をあまり表に出さない表情と、全体的に漂っている引き締まった雰囲気。


 間違いない。沢元優美(ゆうみ)だ。


 彼女は、今年同じクラスになった女の子だった。二学期の始めに、学期ごとに行われる席替えで僕の斜め後ろの席になり、そして六人グループの同じ班になった。


 部活は、県大会常連のソフトボール部に所属していて、学業も優秀だった。彼女とはこれまであまり関わったことがなかったけれど、定期テストではほとんどの科目で、いつも満点近くの点を取っているらしいことを噂に聞いていた。授業中、教師が難しい問題を出し、誰もそれに答えられない時なんかにも、よく「お前ならわかるだろう」というような感じで当てられて、淡々と正答を答える、なんていうことも多かった。


 僕の視線に気づいたのか、彼女も僕の方を見た。距離が離れているうえに薄暗いので表情の動きまではよく見えなかったけれど、彼女は間違いなく、僕に向かって小さく手を振った。


 違和感と、それから既視感を覚えた。


 違和感について一言で言えば、それは要するに沢元の「キャラ」の問題だった。


 彼女は教室でも、特に目立つわけではない。クラスには何人か、かなり派手な女子がいるけれど、その子たちが作っているグループとつるんでいるわけでもない。むしろ、一人きりでいるか、もしくはクラスにもう一人いる、同じソフトボール部の女子と二人で話していることが多い。だから、なんとなく、彼女はそういう「男子に手を振る」という感じのする気さくなキャラではないんじゃないかという印象があった。


 そして既視感についてだけれど、こういうことが以前にもあったのだ。


 それは今から約三か月前の、一学期最後の日のことだった。終業式と通知表配布のホームルームを終えて、僕はひとりで校舎から出た。そのときに、沢元が校門の前で誰かを待っているかのように突っ立っているのを偶然見つけた。彼女は、僕の視界のちょうど中央に位置していて、ふいに僕たちの目が合った。


 そのときも彼女は今と同じように、顔よりも少し低い位置で僕に手を振った。しかし当時は彼女のその行為を別段気に留めはしなかった。僕の周囲には、下校する生徒が沢山いたから、彼女は僕以外の誰かに手を振ったんだろうと思った。


 しかし、今は。


 僕の周りに人はいない。


 そして、彼女はたしかに僕の方へ顔を向けている。


 どうしてだ?


 いつも顔見知りの人を見つけたら、そうやって手を振っているか? そういう挨拶をするのがクセなのか?


 僕は少し気まずさを感じていた。しかし、遠く離れているとはいえ、視線を交わしあっている状態で無視するのも変だと思った。だから、片手を顔の横まで上げて、返事を返した。すると、スーパーの窓から漏れているオレンジ色の光に照らされた彼女の顔に、ほんのりと笑みのようなものが浮かんだような気がした。


 何か、居心地の悪い感じだった。学校でロクに話したことのない女子と、手を振り合って挨拶をしている。どうしてこんなことになっているんだろう、と僕は思った。まったく意味が解らない。


 車が一台、僕の前を車が通りかかって、ヘッドライトの光が、あたりを照らした。車が通り過ぎていく一瞬の間、僕の影が伸び縮みした。車が走行音と共に遠ざかっていくと、彼女は手を振るのをやめて、こくりと首を動かして、会釈をした。半ばつられるように、僕も反射的に彼女に会釈を返した。


 その後彼女は何事もなかったかのように、すたすたと歩き始めた。その姿を少しだけ眺め、「一体なんだったんだろう」と思いながら、僕も自分の家へ向けて歩き出した。


 けれど、その後の帰り道の間、彼女と手を振り合った奇妙な感覚は残り続けた。脳裏には、スーパーから漏れる光に照らされていた沢元の顔と、彼女の私服姿が焼き付いていた。


 〇


 窓の外から、秋の高い空が見える。その次の日は曇り一つない空で、陽射しには鋭さがあり、昼頃には暑さを感じるくらいだった。上着を脱いで授業を聞いていた生徒も多かった。


 給食と昼休みの間にある、二十分の掃除の時間。


 僕はワイシャツの袖を肘までまくり、ほうきを手にもって、ほこりっぽい匂いの漂う階段の踊り場に立っていた。校舎内の空気は少し蒸し暑かったけれど、開け放っている窓から時折吹き込んでくる風は、深まって来た秋の涼やかなものだった。


 掃除の担当は班ごとに決まっていて、僕たちの班は、五階建ての校舎の三階から一階までの階段を担当することになっていた。


 僕たちの班は特に仲良くも悪くもないメンバーが集まっていた。ふざけあったり露骨にサボったりもせず、いつも淡々と手分けして掃除をしていた。班長の沢元も他の女子と話すこともなく、ほうきで床を掃いている。


 僕は彼女の姿を横目で見た。


 制服姿の彼女は昨日見かけたときの印象とは違っているけれど、やはり間違いなく、昨夜スーパーの前で僕に手を振ったのは、彼女だったと思う。


 そんなことを考えていると、ふと彼女も僕に視線を向けた。僕たちの視線がぶつかりあう。一重まぶただけれどぱっちりした意志の強そうな目。


 視線は交わったのに言葉がないことに、気まずさを感じた。このまま視線を外して場を離れようかと少しだけ迷った。しかし、わずかに自分のなかに芽生えてきた興味にかられて、僕は短く言った。


「昨日の夜、会ったよね」


 そう言うと、彼女の表情が少しだけ動いたように見えた。それから、


「会ったね」


 と彼女も短く答えた。答えたあと、少しの間が出来た。気まずい空気が流れているように感じた。けれど、その微妙な間のあとで、彼女はこう続けた。


「青木君は、走ってたの? その、運動してるような服装だったから」


 いつも通りの、落ち着いた声だった。しっかりしている優等生という感じの声音で、やはりその沢元のイメージと、昨日手を振っていた彼女の姿は、なんとなくしっくりこない感じがした。


「そうだけど」と僕は答えた。


「駅伝の練習?」


 頷く。すると彼女は少しだけ表情を緩めて、「偉いね」言った。


「どうなんだろう」


 僕は謙遜ではなく、首を傾げた。


 僕たちの市では、公立中学校の駅伝大会が毎年行われる。各学校から、出場者が男女二十人ずつほど選ばれる。僕はこの出場者の一人に選ばれていた。


 その駅伝大会は市内の中学校の伝統だか、体力強化の一環だか、そんなような理由で存在していて、それで優秀な成績を収めたからと言ってとくにどうなるわけではない。もしかしたら、高校受験の時の面接の話題にはなるのかもしれないけれど、そんなこと以外には、参加することに、特にメリットはない。


 だから、受験がすぐそこまで迫っている中学三年生として「偉い」と褒められる行為は、むしろ駅伝の選手を辞退して、最優先でやるべき受験勉強に集中することの方なのではないかと思った。


「この時期に、大丈夫かなとはちょっと思うけど」と、僕は言った。


 駅伝の選手には、全学年から体力測定の持久走の成績が良かった生徒に声が掛けられる。だが、基本的に受験を控えた三年生は他の学年の生徒に比べて、選出の辞退がしやすい。そもそも三年生はあくまで任意参加ということだったし、学業成績が悪い生徒は、いくら持久走のタイムがよくても声をかけられないという噂もあった。


「たしかに、それはちょっと不安だよね」と、沢元もひとつ頷き、そして続けた。


「私も選ばれてるんだ。女子の代表」


「そうだったの?」


 僕は驚いて言った。


 男子も女子も、駅伝に選ばれた生徒は、部活動終了後の四時半から五時半までの一時間ほどの間に、定期的に練習がある。しかし、男女はメニューが別だ。だから、気がつかなかった。


「辞退しなかったんだ」


 彼女は頷いて、淡々と説明するような口調で言った。


「身体動かすには、ちょうどいいかなって思って。どうせ、二週間だけだし」


 最初、受験勉強の邪魔になる駅伝大会のメンバーを成績優秀な彼女が引き受けたということを意外に感じた。けれど同時に、駅伝の学校代表選手に選ばれたうえで、受験勉強と両立してしまうというのも、よく考えてみれば、「沢元優美」のイメージでもあった。


 半年以上同じクラスにいて、彼女の運動能力が人並み以上であることは、僕も知っていた。本当に欠点が見つからない女子だったのだ。


「昨日は、どのくらい、走ったの」


 僕が黙っていると、彼女はそう尋ねてきた。


「三キロくらいだけど」


「もしかして、今日も走るの?」


 たぶん、と僕は言った。


 するとちょうどそのとき、唐突に校内放送で掃除の時間の終わりを告げる放送が流れてきた。階段のまわりには時計がないから、時間がわからないのだ。


 周りにいたクラスメイトたちが掃除をやめて、ほうきを用具入れに仕舞い始めた。沢元も小さく首を会釈して、ちり取りのなかのゴミを捨てに行った。


 唐突に会話は中断された。あとに残された僕も手に持っていたほうきを片付け、最後にちらりと沢元が使っていた用具を仕舞っている姿を見てから、同じ班の男子と一緒に教室に向かって歩いて行った。

 掃除の時間が終わると、そのまま昼休みに入る。廊下には、開け放たれた窓から、けだるい昼の陽射しが射し込んでいた。

 


 陽が沈んで、昼時は暑いくらいだった空気はすっかり冷え込んだ。僕は昨日と同じく三キロのランニングを終えると、冷たい夜気のなかで大きく息を吐いた。今日はかなりペースを上げて走っていたから、走り終えた後、息が整うまでに少し時間がかかりそうだった。身体にも、少し疲労感を感じた。


 歩きながら空を見ると、薄い雲が掛かっていて、星は出ていなかった。車のヘッドライトの光が、時折車道を流れていく。今夜は弱い風が吹いていて、羽織ってきた薄いスポーツ用のパーカーのフードがわずかに揺れて、耳元でかさこそと小さな音を立てた。


 そうしているうちに、昨日沢元を見かけたスーパーがある通りに差し掛かった。僕はスマートウォッチに表示されている時刻を確認した。ちょうど、昨日と同じくらいの時間帯だった。


 昨日と同じようにあたりにひとけは少なく、営業中のスーパーの店内から明かりが周囲に漏れている。僕はその光に照らされている範囲に、視線を走らせた。


 ――さすがに、いないか。


 沢元の姿は見あたらなかった。


 まぁ、そんなに頻繁に特定の人と出くわすこともないだろうと思って、僕は再び、ひとけのない静かな通りを、ゆっくりと前に歩き出した。


 けれど、最初の角を曲がったところだった。


 ちょうど歩行者信号が赤になっている横断歩道の前に、彼女がいた。


 赤色のカーディガン、デニム生地のパンツ。茶色のトートバッグを肩にかけ、そしてスーパーの袋を手に持っていた。


 昼間、少し言葉を交わしたからかだろうか。『また出くわした』という以外に感想も感情もなかった。僕は彼女の傍まで歩いていき、声をかけた。


「沢元さん」


 すると彼女はびくりと顔を僕に向けて、「青木君」と驚いたような表情を浮かべて、大きな声で言った。


 彼女の声に、近くで信号待ちをしている人たちが、チラリとこちらへ視線を向けた。彼女はそれで少し気まずそうに身じろぎし、今度は声を落として、「びっくりした」と言った。


 そんなに驚かれるとは思っていなかったのだけれど、「ごめん」と僕も小さな声で言った。それから、


「今日も、買い物?」


 彼女の持っている袋を見て訊ねた。彼女は頷いて答えた。


「うん。塾の帰りなんだけど、親にお使いたのまれちゃって」


「そうだったんだ」


「青木君は、走り終えたところ?」


「そうだよ」


 歩行者信号が青になった。他の人たちと同様に、僕たちも並んで歩き出した。近くに車は通ってはいなかったから、コツコツと、僕たちの足音があたりに響いた。


「塾、どこに行ってるの?」


 僕は歩きながら問いかけた。彼女は、前を向いて歩きながら、「興栄」と短く答えた。


「――ああ。なるほど」


 すると沢元が少しだけ小首を傾げて、不思議そうに僕の方を見て訊ねた。


「なるほど、って?」


 そこは、進学校とされている高校に毎年多くの合格者を出す、この地域では有名な進学塾だった。確か、正式な名前は興栄進学塾。あそこに行っている同級生は、大体みんな成績がいい。


「納得って意味。沢元さん、成績いいから」


 そう答えると、彼女は少しだけ、困ったような顔をした。その雰囲気で、もしかしたら彼女はこういう話題が嫌なのかもしれないと思った。


「ごめん」


 僕が謝ると、彼女は、少しだけ慌てたように、「なんで?」と訊ねた。


「なんか、嫌な言い方だったかもしれないって思って」


「ううん。そんなことないよ」


 なんだか、変な会話の流れになってしまった。僕は話題を変えようと、彼女が持っているビニール袋を見て、「この時間に、買い物に行くことが多いの?」と訊ねた。彼女は一度頷いて答えた。


「うん、だいたいそうかな。今日はお使いもあったけど、いつも、塾の帰りに、飲み物を買っていくんだ」


 それから、なにやら袋の中身をごそごそやりはじめ、「これ」と言ってパック入りのレモンティーをひとつ取り出した。彼女は、なんだか嬉しそうな表情を浮かべていた。初めて見る沢元の表情だった。私服姿というのもあるのかもしれないけれど、今の彼女からは学校でそれまで抱いていた少し堅い印象とは違う印象を受けた。


「知ってる? このレモンティー。美味しいんだよ」


 彼女はちょっとだけ手を上げて、レモンティーの紙パックを僕に見せた。商品名のフォントや、印刷されているイラストのデザインが可愛らしく、女性受けしそうな感じだった。


「俺、飲んだことない。そんなのあったんだ」


「美味しいよ。すっきりしてる味だから、男の子も好きな感じだと思う。おすすめ」

 たぶん本当に好きなんだろう。この話をしている間、彼女の表情の動きも、声の調子も、それまでよりも硬さがなくなっているように思えた。素で話している、という感じだった。


「今度、飲んでみるよ」


 僕が言うと、彼女は嬉しそうに大きく頷いて言った。


「うん。そうしてみて」


 そのとき、背後から車の音が近づいてきて、僕たちのそばを通りすぎ、ヘッドライトの光が並んでいる街路樹を照らしていった。車が通り過ぎていき、再びあたりが静かになったところで、僕はまた話を彼女に振った。


「平日も塾に通ってるの、大変だね」


「うん。正直、部活もやってたときは、大変だったかな。でも、来週からはもういかなくなるんだけどね」


「どうして?」


 僕は言った。受験勉強は、これからが佳境のはずだ。それなのに、このタイミングで塾をやめる、というのは、不自然なことに感じた。何か事情があるのだろうか、と思った。塾を変えるとか、あるいは家庭教師をつける、とか。


 彼女は前を向いて歩きながら、淡々と言った。


「もう自習だけに切り替えようかと思って。私、お姉ちゃんいるんだけど、この時期になったらもう自分で過去問解いて、わからないところだけ学校の先生に聞くような感じにしたほうが効率いいよって言われて。私もそうだと思ったから、塾はやめることにしたんだ。親もそれでいいって」


「へぇ」


 そういう家もあるのか、と思った。きっと姉妹揃って優秀なんだろうし、沢元自身も、親に信頼されているんだろう。僕の場合だったら、きっと許されなかったと思う。


「うん。でも、塾辞めたら、夜のスーパーに寄っていくことはもう当分ないかな。夜のスーパーの雰囲気って癒されるから、好きだったんだけど」


「癒し? 夜のスーパーが?」


 あまりよく理解できずに問い返すと、彼女は少しだけ首を傾げて、しばらくの間、うーん、と唸った。それから、ゆっくりと話を続けた。


「うまく言えないんだけど、なんだか、その、優しい感じの時間なんだ」


「優しい感じ?」


「うん。特に平日は、塾が終わると、もうクタクタになってるのね。それで、一日が終わったなぁ、って思いながらお店に入ると、同じように、一日の終わりに何か食べ物とか飲み物を買いに来てる人たちがいるでしょ? そこには、みんなが一日を終えて安心しているような、そんな空気が漂ってるの。……静かな解放感、っていうか」


 難しい問題を解いているような、真剣な表情で沢元はそう言った。たぶん、自分が言いたいことをうまく表現するための言葉を探していたんだろう。


 けれど、あまりうまく説明出来ていると思わなかったのか、言い終えると、彼女は集中を解いたように笑って、「ごめん、わかんないよね」と続けた。


 僕は首を振った。


「いや、なんとなく、想像できたよ」


「ほんと?」


 疑わしそうに、彼女は言った。


「たぶん」


 自信があるわけじゃないけど、まぁ、たぶん、わかったとは思う。僕が頷くと、彼女は小さく笑った。その笑い声は、僕の胸の中に沁みた。乾いた地面に水が吸い込まれるみたいに。どうしてか、こういうとても個人的なことを、言葉を探しながらでも話そうとする彼女に、僕は好感を持った。


 学校のクラスメイトとは、普通、こういう話はしない。大抵、教室での話題というのは決まっている。


 通り一遍で、あたりさわりなくて、それぞれがそれぞれ教室で演じている、あるいは設定されてしまったキャラの印象の範囲からはみ出しすぎるような話はしない。二学期も後半に入れば、だいたい、誰がどんな話をするのかは予測できるようになっている。そのコミュニケーションの枠のなかに収まっているのは楽だけど、時には息苦しくもある。


 だから今、教室の中で見ているのとは違う沢元と接しているのは新鮮で、不思議な心地よさまで感じていた。


 その会話が途切れてからも、僕たちは並んで歩いた。汗が冷えてきて、少し肌寒さを感じてはいたけれど、急いで歩こうとは思わなかった。住宅街の静かな通りを、街灯やまばらな星を見ながら、彼女の歩調に合わせて、ゆっくりと進んでいった。


「じゃあ、またね」


 ふいに、彼女が言った。僕が怪訝に思って立ち止まると、彼女は、曲がり角のすぐ近くにある家を指差した。


「あそこ、私の家だから」


 彼女が指さしたのは、この通りに立ち並ぶ他の家々と同じデザインの、二階建ての一軒家だった。僕は、すぐそばにあったレンガの壁に埋め込まれていた、銀色の表札をちらりと見た。街灯の光を頼りに見たその表札には、少し丸みを帯びたおしゃれなフォントで「沢元」と彼女の苗字が書き込まれていた。


 僕はこれまでに何度もこの道は通ったことがあったけれど、いちいち家の表札までは確認してこなかったから、彼女がここに住んでいることは初めて知った。


「ここに住んでたんだ」


 僕が半ば独り言のように言うと、「そうだよ」と彼女は頷いて、僕に、顔の横で小さく手を振った。


「また明日、学校で」


 秋の夜の空気に、その短い声はすぐに消えていった。少し風が吹いて、汗をかいた僕の肌を冷やしていった。


 僕も、小さく手を上げて答えた。


「うん。また明日」

 

 

 沢元は、確かに市内の駅伝大会に出場する選手になっているようだった。


 次の日は駅伝の代表選手に選ばれている生徒たちの練習日になっていた。三時半くらいに帰りのホームルームが終わり、クラスメイトたちは早々に教室から帰っていくのだけれど、沢元は一度どこかへ出て行ったあと、ハーフパンツと学校ジャージに着替えて、もう一人、同じ格好をした湯川という女子(彼女も駅伝の練習に出るのだろう)と教室に戻ってきた。


 全体練習はこの日で二回目だけれど、前回のこの時間、僕はすぐに時間つぶしに図書室へ行ってしまっていたから、教室で運動着に着替えた彼女とは会わなかったのだ。


 運動着姿の彼女をぼんやりと見ながら、本当に何でも出来る子なんだな、と改めて思った。


 勉強は学年トップクラスで、受験対策に塾に通う必要もなく、学校中から選抜される駅伝のメンバーにもなっている。


 容姿だって悪くない。それほど目立つというわけではないけれど、欠点がないというか、たぶん多くの人が、「普通に可愛い女の子だ」と思うような見た目だった。制服はほとんど着崩していないけれど、ショートの髪型は利発な彼女の雰囲気に良く似合っていて、野暮ったい感じはない。教室のなかでも特に嫌われているようなところもない。淡々と、日々を過ごしている。


 そんなことを考えていると、劣等感だかなんだか知らないけれど、ため息を吐きたいような気分になってきた。僕は頭を切り替えて自分のことに集中しようと、机の上に広げているノートと参考書に視線を落とした。


 練習は四時十五分からだから、少しだけ、勉強をする時間がある。三十分くらいの間だけど、集中してやるのには、むしろちょうどいいくらいの時間だった。


 僕は数学の問題をノートに解き始めた。勉強に入るときの心理的な抵抗感はなく、シャープペンが紙をこする音が、耳に心地良かった。よく集中して取り組めそうだった。教室の前の方の席に座っている沢元と湯川は、小さな声でなにか話している。主に湯川が誰かの噂話をしていて、沢元が、それに相槌を打っている。


 いくつかの問題を解き終えた。


 僕は一息入れて、ノートから顔を上げた。この日も日中は暖かく、今もまだ、いくつかの窓が開いていた。教室の前の方にあるカーテンがまとめ忘れられていて、吹き込んでくる風に揺れている。書き物をするのに長袖のシャツの袖が鬱陶しかったので、僕は袖を肘のあたりまで捲った。


 その後もしばらく、僕は三人だけしか残っていない教室で勉強を続け、切りのいいところでペンを置いた。ちょうどそのとき、湯川が席を立って、ひとり廊下へ出て行った。椅子を引く音や湯川が歩いていく音に、僕は視線を上げた。すると、まだ座っていた沢元と目が合った。


 教室のなかは、ほとんど無音だった。グラウンドで活動している下級生たちの部活の音が、遠く聞こえてくるだけだ。


 また手振るかな、と思ってしまったけれど、もちろん二人だけしかいない教室のなかでそんなことはしなかった。


 彼女はすぐに視線を僕から逸らし、手持無沙汰そうに手を太ももの上に置いた。僕も、そろそろ机の上の勉強道具を片付けようと思い、手元に視線を落とした。練習開始の時間が近づいてきている。


 ふと、椅子を引く大きな音が聞こえた。顔を上げると沢元が立ち上がり、僕の席の方に向かって歩いてきていた。僕の前に立つと、彼女からふわりとした柔らかい香りがした。


「ここ、座ってもいい?」


 沢元は目線で、僕の前の席を示した。僕は頷いた。彼女は微かに口元を緩めて笑みを浮かべ、その椅子に横向きに座った。さらりと、ショートの髪が揺れた。


「邪魔してごめんね。私たち、うるさくなかった?」


 片付けている途中の僕の勉強道具をちらりと見て、彼女は言った。


「いや。――湯川さん、どこ行ったの?」


 すると、彼女は少しだけ口ごもった。もしかして、何か答えにくい理由でもあったのだろうかと思って、聞いたことを後悔した。


「あ、うん。他のクラスの友達のところ。何か用があるんだって」


「そうなんだ」


 それが本当かどうかはどうでもよかった。僕はそれきり、その話題について話すことをやめた。


 沈黙の時間が流れた。


 沢元は椅子に横向きに座ったまま指先をいじり始めた。あまりにも静かすぎて、居心地が悪かった。けれど僕も話題を見つけられず、ただ彼女がいじっている指先を見ていることしかできなかった。彼女の爪はどれも、きちんと短く切られていた。光沢もあって、綺麗な爪だな、と思った。


 ふいに彼女が手の動きを止めて、顔を上げて僕のほうを見た。


「どうして、青木君は駅伝出ることにしたの?」


「どうしてって?」


「三年生は辞退する人のほうが多いから、なんとなく」


 横座りをしたまま、手を膝の上に乗せて、彼女は言った。


「いいトレーニングになるから」と僕は短く答えた。


「それって、サッカーの?」


 僕がサッカー部に所属していたことを彼女は知っているようだった。これまでほとんど関わってこなかったけれど、クラスメイトだし、それは別に不自然なことじゃない。


 確かに、彼女の言う通りトレーニングの一環という意味はあった。高校に進学してもサッカーは続けるつもりだったから、受験が終わるまでの間に体力を落とさないように、この時期にある程度の走り込みをしておきたいとは思ってはいた。けれど、それだけが理由というわけでもなかった。


「うん。走ること自体は本当はあんまり好きじゃないんだけど、目標があれば、夜の走り込みのやる気も上がるし。それに、この時期に走るのは、他の季節に比べて好きなんだ」


「他の季節とは違うの?」


 あまり表情は動いていなかったけれど、興味を引かれたような声音だった。


 僕はどう答えようか考えた。彼女の言う通り、確かに僕にとって、この時期の夜は他の季節のものとは何か違う感覚があった。


 まだそれほど冷え込んではいないけれど、これから来る冬の気配に満ちた空気の感じ、その気配が冬へ向かっていくにつれて一日ごとに深まっていく感じ……。走りながら、そういう感覚を身体で感じていることが好きだった。


 しかしそんなことを、うまく言葉にして彼女に伝えることが出来るような気はしなかった。それに、こういう類いのことは、「学校で話題に出来る範囲」の外にあることだった。そうそううまく伝わる話じゃない。だから、僕は、うーん、と誤魔化すように唸って、曖昧に首を捻った。


「うまく言葉に出来そうにないけど、そう、かな」


「――私の、夜のスーパーみたいなもの?」


 無表情だった沢元の顔に、どこか悪戯めいた、秘密を共有させるような、そんな笑みが浮かんだ。


 僕は、昨日夜道を歩いている途中で聞かされた彼女の話を思い出して、「そうかも」と答えた。別に、ただ単に調子を合わせただけではなくて、本当に何か通じるところがあるような気がしたのだ。


 彼女は独り言のように「私も、今日の夜、走ってみようかな。今日は放課後に、予定ないし」と言った。それから、手を膝の上に置いたまま、顔を上げて僕の方を見て言った。


「もしよかったら、一緒に走らない?」


 思わず、聞き返してしまった。


「――は?」


 すると彼女は少し慌てたように言い添えた。


「あ、迷惑だった? それなら、いいんだけど」


 いや、と僕も慌てながら首を横に振り、少しだけ動悸を感じながら答えた。


「そういうわけじゃないよ。別に、いいよ」


「ほんと?」


 そう言ったときの彼女の表情には、どこか安堵感が含まれているような気がした。教室での彼女は、あまり感情を表に出さない。動揺しているところを見たことがなかった。けれど、この時の彼女には、なんだか隙が出来てるような気がした。


 僕が頷くと、ありがとう、と彼女は言った。それからまた沈黙が下りた。グラウンドから、どこか間の抜けた「しゅーごー」という声が聞こえた。「集合」のことだと、意識の片隅で意味を取り直していると、沢元がチラリと時計に目をやって「もう時間だね」と言い、すっと椅子から立ち上がった。


 その動作で、どこか気づまりな感じが漂っていた空気が変わった。


「練習終わったら、待ち合わせの話しよう。――校門の前で待ってるね」


 短くそう言って、彼女は教室の外へと出て行った。僕は一人、十一月の秋風が吹き込む教室に残された。

 

 

 ふと夜空を見上げると、のぼったばかりの月が出ていた。雲はひとつもない。吸い込まれそうなくらいに澄んだ黒い夜空が頭上に広がっていた。


 待ち合わせの場所は、沢元の家からすぐ近くにある小さな公園の前にした。


 今日の放課後の練習のあと、校門の前で待っていた彼女とこの待ち合わせの話をした。女子が一緒だと、いろいろと危ないこともあるかもしれないと思ったので、待ち合わせ時間はいつも一人で走っているときよりも早めの七時からにした。もう陽は沈み切っているけれど、通りにいくつも並んだ街灯の光や、家々から漏れる光があるから、それほどあたりは暗くはない。


 二、三分ほど経つと、彼女が通りを歩いてきた。遠くからでも、シルエットの雰囲気ですぐに分かった。


「ごめんね、待たせた?」


 近くまで来ると、彼女は言った。僕は首を横に振った。


 すぐそばに立っている街灯の光に照らされて、彼女の姿がはっきりと見えた。黒のトレーニングタイツにショートパンツ、それから落ち着いた青色のパーカーという格好だった。細身ですらっとしていて、学校のジャージ姿より、いくぶん大人びて見えた。


「最初だし、今日はゆっくり走ろう」と僕は彼女に言った。男女の差があるし、僕としても、今日は軽く流して、調子を整えるくらいにしたいと思っていたのだ。そう言うと、彼女は少し申し訳なさそうに言った。


「気、使わなくてもいいよ。ついていくから」


「いや、でも、」


 僕が言葉を続けようとすると、彼女は顔を上げて、真っすぐに僕の目を見ながら言った。


「大丈夫。足、引っぱりたくないの。こっちから、頼んだんだし」


 思わず、綺麗な目だな、と僕は思った。一重まぶただけれどぱっちりとしていて大きく、聡明さと意志の強さを感じる。


「……わかったよ。でも、今日は俺も本当に調整するくらいのつもりだったから、遅めのペースで走るよ」


「うん」


 頷いて、沢元は、軽く足を伸ばし始めた。数分間、僕たちは身体の筋肉を伸ばしたり、靴ひもを結び直したりして、走り始める準備をした。


「――そろそろ、行こうか。三キロを、とりあえず二十弱分くらいで」


「オッケー。それくらいなら、足引っ張らないで済みそう」


 そう言って、彼女は小さく笑んだ。


 僕は、腕につけていたスマートウォッチを操作し、彼女に目を向け、彼女が小さく頷いたのを見たあと、時間の計測をスタートさせ、それと同時に走り始めた。


 〇


 走っているときに真横に沢元がいるのは不思議な感じだった。


 どうして僕は、これまでほとんど話したこともなかった女子と一緒に走ることになってしまったのだろう、と走りながらふと思ってしまった。


 約束したからなのはわかっているのだけれど、もっと根本的なところで違和感があるというか、クラスメイトの女子と二人で夜の道を走っているという今の状況そのもののを、頭で上手く受け入れられていない感じがした。


 横目で彼女を見た。もうそろそろ、一キロが経過するところだった。今のところ、彼女からはつらそうな様子はなく、多少女の子っぽい腕の振り方はあるけれど、綺麗なフォームで走っていた。


 そのとき、彼女も横目で僕の方をちらりと見た。目が合うと、「平気?」と、僕は特に何も考えず、反射的に訊ねていた。彼女は小さく頷き、先ほど見せた負けん気の強い感じの視線にちょっとだけ笑みを混ぜ、「余裕」と言った。


 本当に余裕そうだったので、僕はとりあえず安心して、時計を見た。一キロあたり六分半ほどのペースで走れている。彼女に伝えた通り、ちょうど三キロをに十分弱で走り終えられるペースだった。


 その後は会話もせず、小さく息を弾ませながら、僕たちは夜の街を走り続けた。街の景色が、街灯の光が、僕たちの周りを流れていく。そうやって並んで走っていると、足並みが自然に揃ってきた。次第に彼女と一緒に走っていることの違和感は薄れていった。それだけではなく、むしろいつもよりも心地いい感覚で走れているような気すらした。


 例のスーパーのある通りに入るところで、ちょうど走行距離が三キロに達した。


「沢元さん、三キロ過ぎた。緩めよう」


 そう言うと、彼女は頷いた。僕たちはペースを緩めて減速した。その途端に、僕たちの歩調もばらばらになっていった。


 しばらくして、呼吸が落ち着いてきたころに僕は言った。


「平気? この時間に走るの、初めてだっただろうけど」


「うん。このくらいなら、全然大丈夫。部活で何度も走らせられてたし」


「さすが」


 そう返すと、彼女は少し得意そうに笑みを浮かべた。僕たちはそのまま、待ち合わせ場所にしていた公園に向かって歩いていった。その間、まばらに乗客を乗せたバスが通りすぎ、救急車の音がどこからか響いてきて、秋の風が汗ばんだ皮膚を冷やしていった。


 待ち合わせた公園に戻ってくると、明かりのあるベンチの近くで、僕たちは立ち止まった。彼女は、そのベンチに腰かけた。


 僕は近くで暗闇のなかで青白い光を放っている自動販売機まで歩いていった。そして、ポケットに中に突っ込んできていた五百円玉で、300ミリリットルくらいのサイズのペットボトルのスポーツドリンクを二つ買った。彼女の近くまで歩き、スポーツドリンクを差し出す。


「沢元さん、これ」


「え、いいの?」


 彼女は少し遠慮したような素振りで言った。


「いいよ、どうせ百円くらいだし」


 僕が答えると、「ありがとう」と言って、それを受け取った。僕たちは、ベンチに、人ひとり分の距離を開けて座った。


 座ってから妙に緊張してきた。話はなく、僕たちはコクコクと、ただスポーツドリンクを飲んでいた。夜風の冷たさに、温かいものの方がよかったかな、とちょっとだけ選択を後悔したけれど、彼女の方は特に寒そうにもしていなかった。


 すると、彼女は思い出し笑いをするように苦笑して、独り言のように言った。


「あー、焦ったぁ」


 怪訝に思って僕は訊ねた。


「何が?」


 彼女は前を向いて話し始めた。公園の前の通りに人影はない。ただ近くの家から漏れてくる暖かそうな光が見えるだけだ。


「今日、『一緒に走ってもいい?』って言ったとき、わたし、男女の体力差とか、あんまり考えてなくて。なんだか、おかしなこと言っちゃったかもって、ずっと焦ってたんだ」


「――うん」


 そういうことなら、わかる。けれど、そういうテンパった話をあの沢元優美から聞くのは、意外だった。


 僕が黙っていると、彼女は、「でも、よかった」と続けた。どこかほっとしたような口調だった。その声は、すぐに夜の住宅街の静けさに瞬く間に溶けていった。


 秋の虫が、どこかの草むらで鳴きはじめた。ふと横を見たら、彼女は心持ちうつむいていた。髪に横顔が隠されていて、どんな表情をしているのかわからなかった。さらさらとした黒髪から、耳の頭だけが見えた。


 運動して上がっていた身体の熱はもうかなり秋の夜の冷気に冷やされていた。少しだけかいていた汗も、すでに乾いている。僕は無意識に顔を上げた。すると、こちらへ顔を向けていた彼女と、不意に目が合ってしまった。彼女の瞳のなかには、僕たちの近くにある街灯の白い小さな光が映り込んでいた。思わず、僕はすぐに目を逸らした。


 手首のスマートウォッチの文字盤が目に入った。もうすぐ、八時になるところだった。


「そろそろ、八時になるよ」


 その声は、沈黙の池のなかに、ぽつんと小さな波紋を広げるように響いた。彼女は、うん、と小さく頷いた。


「もう帰らないと」


 僕も頷き、ベンチから立ち上がった。


「家の傍まで、送るよ」


「え、でも、悪いよ。方向違うし」


「そんなに離れてないし、別にいいよ。行こう」


 僕はそう言って歩き出した。彼女の家に着くまでの五分間ほどの時間を、僕たちは並んで、そして無言で歩いた。やがて彼女の家の前に着いとき、彼女が言った。


「今日は、ありがとう」


「うん」


 僕は頷いた。それから、また沈黙が訪れた。なんだか、別れ際のタイミングを逸したような奇妙な気まずさを感じていたけれど、やがて彼女が咳ばらいをして、


「よかったら、また今日みたいに、一緒に走ってもいい?」と言った。


 それを聞いたとき、僕の胸のなかに何かが熱くなった。僕は無意識に、頷いていた。すると彼女はそっと笑んで、「ありがとう」と、小さな声で言った。


「じゃあ、待ち合わせの連絡のために、ラインの交換しよ。明日学校で、IDとか書いた紙、渡すから」


「うん。わかった」


 僕が答えると、彼女は明るい表情で頷いた。それから「じゃあね」と言って小さく手を振り、家のなかへ入っていった。

そのときに少しだけ、明かりが漏れて、彼女の家の玄関が見えた。その一瞬の暖かな光と、垣間見えた彼女の家の光景が、なんだか未知の世界の入り口にみたいに思えた。

 

 

 その日から、僕たちは、彼女の予定が空いている夜には待ち合わせをして一緒に走るようになった。学校でも以前よりも言葉を交わすことが多くなった。日々寒くなっていく気候と同じように、日を経るごとに、僕たちの間にあった距離感は徐々に近づいていった。


 すぐに一週間が過ぎた。その夜も僕たちは二人で走っていた。


 もう沢元との走っているときに違和感を感じることはない。彼女と一緒にいることに慣れてくるにつれて、夜のこのランニングのときの彼女は、学校のいるときとは印象が少し違うと感じるようになっていた。


 学校の沢元は、授業中はもちろん、休み時間のときも、じっと席に座っていることが多い。次の授業の準備をして、少し退屈そうに、休み時間の喧騒のなかで、クラスメイトたちのことをぼんやりと眺めている。けれど夜一緒に過ごしているときは、教室にいるときよりもよく話をするし、表情もより豊かなような気がした。


 この日、三キロを走り終えたあといつものように待ち合わせ場所の公園に戻って、なんとなくベンチに座りながら、そんなことを考えていた。すると、


「どうしたの?」


 と、横で沢元が言った。何か不思議そうに首を傾げている。僕は横に首を振って答えた。


「いや、学校にいるときと、沢元さん、印象違うなって思って」


「ほんと? どんな風に?」


「学校にいるときは、なんだかすごくクールな感じだから」


「そう見える?」


 と彼女は静かな口調で言った。僕は頷いた。


「あれはあれで、自然体なんだけどね。ああしてる方が楽っていうか」


「それはなんだかわかる気がする」


 僕も、教室のなかでは、無理にテンションを上げるとか、誰かに絡みに行くとか、そういうことをしない方だった。そういう余計なことに、自分の時間や労力を向けたいと思うことはあまりなかった。


 僕が言うと、「でしょ?」と彼女はなぜか嬉しそうに言った。


 この日は雲がなく、暗い夜空に星が良く見えた。空気はだいぶ冷えてきていて、少し寒さを感じるほどだった。大きく息を吐くと、その息が白く浮かんで見えた。


 冬が近いな、と思った。あるいはもう冬になっているのかもしれない。登下校中にマフラーをしてくる生徒も見かけるようになったし、テレビやネットのCMには、クリスマスイベントのものも混ざり始めていた。気候に特色のない東京郊外のこの街では、秋と冬の境目はどうにもはっきりしない。


「そういえば、沢元さんはどこの高校受けるの?」


 僕はふと思いついて、そんな話題を出した。すると、それまではニコニコしていた彼女の表情が、すっと引き締まったような気がした。そして、少しの沈黙のあと、全く聞き覚えのない学校の名前を告げた。


「どこの高校?」


 怪訝に思って聞くと、「長野県」と彼女は答えた。


 すぐには反応を返せなかった。


「引っ越すの?」


 彼女は頷いた。


「うん。中学卒業したら。家の事情……、ていうか、お父さんの転勤で」


「……そうなんだ」


 会話はそこで途切れた。僕は、秋だか冬だかわからない、曖昧な季節の夜空を再び見上げた。当然のことだけれど、そこには少し前に見た夜空と同じ夜空が広がっている。けれど、それは先ほどよりも少しだけ、寒々しいものに見えた。


「だから、この冬が、ここにいる最後の季節なの」


 彼女の言葉に、僕は頷いた。どういう意味で頷いたのかは、自分でもよくわからなかった。


 なにかを言おうと思う気持ちだけが湧きあがってきた。けれど、何も言葉が浮かんでこなかった。ただ風だけが音もなく吹いていき、僕たちの身体を冷やしていった。


 やがて彼女が手をさすり、「冷えてきたね」と言った。通りを歩いている人は、寒い風に首をすくめていた。僕も随分と自分の手が冷たくなってきていることに気がついた。


「そろそろ、帰ろうか」


 僕が言うと、彼女はこくりと頷いた。


 今日も僕は、彼女を家の前まで送っていった。彼女の家に着くまでの間、僕たちは話をせずに歩きつづけた。灯油を販売している軽トラックの呼びかけの音声が、どこかから遠く聞こえてきた。


 やがて、彼女の家に着いた。すると彼女は、別れの挨拶をする前に「ちょっとだけ、待っててもらってもいい? すぐ戻ってくるから」と言った。


 僕は何だろうと思いながら、沢元の家の門の前で待っていた。その間、改めて彼女の家を見た。


 家自体は通りのなかで目立っているわけじゃないけれど、どことなく、窓の向こうに見える落ち着いたカーテンの色や、手入れされた庭先の花壇の様子などから、住んでいる人たちの品の良さが漂ってきていた。沢元は来年になったら、この家から引っ越していく。無人になって、明かりの消えたこの家を僕は想像してみた。それはなんだかとても寒々しくて、寂しい光景だった。


 ドアが開く音がした。家のなかの光とともに、沢元が再び外に出てきた。


 前庭の少し前で待っていた僕の方まで歩いてきて、彼女は、「これ、どうぞ」と、パック入りの飲みものを僕に差し出してきてくれた。この間、彼女がおすすめと言っていたレモンティーだった。


「よかったら、飲んで。この間、飲み物おごってもらったし、それに、一緒に走ってくれてることのお礼」


「ありがとう」


 僕はそのパックを受け取った。常温のようだったけれど、僕の手が冷えていたのか、それは少しだけ、暖かく感じた。


「じゃあね」


 沢元は、小さく手を振った。その顔には、学校ではあまり見かけない笑みが浮かんでいる。どうしてかそれを見たとき、僕は寂しさで締め付けられるような気持ちがした。


 僕は家に帰ってシャワーを浴び、夕飯を食べたあと、彼女からもらったレモンティーのパックを持って、自分の部屋に戻った。


 僕はそれを飲みながら、スマートフォンで、彼女が受けるという高校と、その付近の街について調べた。


 すぐに、その聞いたことのない長野県の土地の画像が画面に広がった。距離を調べると、ここから電車で約二時間くらいのところにある街だった。画面に映る街の風景を見ながら、来年の春には彼女がこの街に住むのだと想像すると、なんだか奇妙な感じがした。


 部屋のカレンダーを見た。市内の駅伝大会までは、あと少しだった。もうそれほど、彼女と一緒に走る機会はないだろう。どうしてかそんなことを、寂しさの感覚とともに、僕は強く意識していた。


 〇


 三日後が経った。沢元が長野に引っ越すという話を聞いた日以降、僕たちは都合が合わなくて、夜のランニングはしていない。


 静かな放課後だった。駅伝大会へむけての全体練習が始まるまでにはまだ時間があったけれど、この日はあまり勉強をする気になれなくて、僕は窓辺に行き、なんとなくグラウンドで活動している部活を眺めていた。サッカー部の後輩たちがハーフコートでゲーム形式の練習をし、野球部が守備練習をしている。


 曇っていて少し薄暗かった。


 教室には電気が点けられているからか、窓から見下ろすグラウンドは、さらに暗く見えた。陽が出ていないから、サッカーゴールの後ろにも、グラウンドに出ている生徒たちの後ろにも、影はない。すべてが薄闇のなかに沈んでいるみたいだった。


 教室の窓にはなぜか下のほうに二本だけ、金属製のポールが取りつけられている。転落防止という話を聞いたけれど、窓の向こうにはベランダがあるから、どれだけ意味があるのかよくわからない。


 僕はそのポールの上で頬杖をついた。窓を開けていたから、金属製のそのポールはその空気にずっと触れていたのだろう、ひんやりと冷たかった。


 教室のドアが開く音がした。


 振り返ると、一人の女子が入ってくるところだった。沢元の友達の、湯川だ。さっきは二人で教室を出て行ったのに、今は湯川一人だった。


 どこに行ったんだろう、と思っていると彼女は僕のほうへ近づいてきた。


「何してるの?」


 急に話しかけられて、少し答えに困ってしまった。特に何をしているわけでもなかった。ぼんやりとグラウンドを眺めていただけだ。


「部活見てるの?」


「そうだけど」


 頷くと、彼女は僕の横に立ってグラウンドを見下ろした。彼女は、沢元よりも少し身長が低い。百五十センチと少しくらいだと思う。ちらりと横を見ると、湯川のつむじが見えた。


 湯川とはこれまでにも話をしたことがある。誰にでも気さくに話かけるタイプで、友達も多いようだった。クラスの中心人物というわけではないけれど、そこそこ目立ってはいた。明るい性格で、教師たちからも気に入られているように僕は感じていた。


 今も、静かな教室に二人きりだというのに、あまり話しにくさは感じない。そういう話しやすい雰囲気が彼女にはある。


「沢元さんは?」


 聞くと、彼女は僕のほうを見てにやりと笑った。


「気になる?」


「いや、いつもこの時間は一緒だから、どうしたのかなと思って」


「ふーん」


 にまにまと笑いながら、彼女は意味ありげな視線を僕に送ってきた。


「ねぇ、青木君は優美といつ仲良くなったの?」


「いつ?」


 僕は、この一か月弱のことを思い起こした。きっかけは、間違いなく一緒に走ったことだったと思うけれど、それを彼女に言うのは憚られたし、それに、いつから仲良くなったのかは、正直、僕にもよくわからなかった。


「なんか、いつの間にか」


「ほんとに?」


 彼女は僕の反応を楽しんでいるような表情のまま続けた。


「わかんないんだよね、教室のなかでそんなきっかけはなかったと思うから。やっぱり、二学期になって席が近くなったからなのかなぁ」


 僕は「どうだろう」と、曖昧に首を振った。


 しかし、この会話の流れで、沢元の方も夜のランニングのことは湯川に話していないことがわかった。――言わなくてよかった、と思った。言えばどんな反応をされたかわからない。


「でもまぁ、よかったよ。優美と君が仲良くなれたみたいで」


「よかった?」


 僕は怪訝に思って聞き返した。


「どういうこと?」


 すると彼女は少しだけ声を潜めて、ドアの向こうに、気配を探るような視線を向けた。


「席替えのときの班長の特権って知ってる?」


 聞いたことがない。僕は首を横に振った。すると、彼女は声を潜めたまま、しかし少しだけ悪戯をするようなニュアンスも含まれているように感じられる調子で言った。


「班長って、席替えのときに、班員と班内での席を指定できるの」


 僕は一瞬、何を言っているんだろうと思った。けれど、その後すぐに彼女の言いたいことを察した。湯川がそれを言った意味を理解すると、胸のなかに、小さな熱の塊が出来たように感じた。すぐに熱さは顔まで上ってきて、それが表情に出していないかどうか、心配になった。


「わかった?」


 僕は、とっさにこう言った。


「湯川さんが言ったことは」


 んー? と彼女は僕の反応が気に入らなかったのか、少し首を傾げた。


「照れなくてもいいよ。私は二人の味方だから。君を斜め前の席に座らせたのは、優美。隣じゃないってところが、なんだか可愛いけど。一学期から、君に興味があって、仲良くなりたかったらしいの。あの優美に興味を持たれるなんて、君は変わってるね」


 興味、と僕は自分のなかで繰り返した。


「どうして、湯川さんは、それを俺に話したの」


 湯川は僕から少しだけ視線を逸らして、暗いグラウンドのほうへ再び視線を向けて言った。甲高いホイッスルの音が大きく響いてきた。その音は、静かな秋の夕暮れの空を裂くような鋭い響きだった。


「優美、来年の春に引っ越しちゃうらしいからさ」


 そう言ったときの彼女の声音は、それまでよりも少しだけトーンが落ちているように思えた。湯川は、少しだけ沈黙を挟んで続けた。


「だから、わたしとしても気になってたんだよね、今君たちがどうなってるのか」


「沢元さんが長野に引っ越すっていう話は、知ってたよ。本人から聞いた」


 すると、少しだけ目を大きくして、驚いたように彼女は言った。


「そうなの?」


 湯川は窓の外へ向けていた身体をくるりと回して、窓の前に取り付けられたポールに背を持たせかけ、何やらにやにやとしながら僕の方を見て言った。


「仲良くしてあげてね。わたしがでしゃばれるのは、とりあえずこの辺までだろうから」


 僕がそれに対して反応を返す前に、ドアの向こうの静かな廊下から足音が響いてきた。僕たちが振り返ると、ちょうどドアが開き、沢元が現れた。僕たちの方を見て、怪訝そうな表情をしている。たぶん、僕と湯川が二人で並んでいるのが不思議だったんだろう。


「何してたの?」と彼女は僕たちのそばまで歩いてきて言った。


「ん。秘密の話」


「なにそれ。ねえ、なにそれ」


 沢元は湯川の腕を取って、ゆさゆさと揺さぶりはじめた。


「さぁねー。青木君に聞いてみたらー」


 面白がっているような調子で、湯川は言った。沢元は、ぱっと湯川の腕を放し、僕のほうへ、じろっと視線を向けた。


「あとで教えてね」


 いつものクールな沢元の表情に、珍しく必死な感じが混ざっていた。


 僕はぶつかり合った視線を逃がすように、湯川の顔を見た。彼女は、にまにまとしたまま、僕にどう解読していいのかわからないアイコンタクトを送り、意味ありげに頷いた。


 ――わかんねぇよ。

 そう思ったけど、とりあえず、全てこちらに投げられたことだけはわかった。

 

 

 三キロを十三分ほどで走り切り、僕は荒い息を吐きながら、膝に手を当てた。結構キツいペースだったけれど、本番が近づいてきていたので、このあたりで一度身体に負荷をかけておこうと思ったのだ。


 この日は、放課後に沢元から連絡が来て、数日ぶりに一緒にトレーニングをすることになった。


 一度、いつもように彼女と一緒に走った後、僕はひとりで追加の三キロを走った。今日の合計の走行距離は結構長くなったけれど、明日から土日で学校が二連休になるので、多少疲労が残っても問題はない。


 僕は彼女が座っていたベンチの横に置いてあった、走る前に買ったスポーツドリンクを手に取って、何口か飲んだ。その後で、


「疲れた」


 息を深く吐きながら、無意識のうちに漏らしていた。沢元は苦笑して、「お疲れさま」と短く言ってくれた。


 彼女は僕が走っている間に一度家に戻っていたようで、今は自動販売機で買ったらしいコーンポタージュの缶を手にもっていた。トートバッグが横に置かれ、その上には彼女のスマートフォンが乗っている。待ってくれている間、スマートフォンでも見ていたのだろう。


 僕も彼女の隣のベンチに座った。彼女はコーンポタージュを飲み、それから、手のひらを温めるように両手でそれを持った。


 この夜もかなり冷えてきていて、汗はすぐに引いた。呼吸が落ち着くと、身体には運動後のリラックスした感覚が訪れてきた。しかし、ここでのんびりしているわけにもいかない。もう暗いし、ずっとここで座っていた沢元は身体を冷やしてしまっているだろうし、それに……。


「ねえ、青木君、今日の学校でのことなんだけど……」


 沢元がそう切り出してきた。僕は彼女がそれを言い終わらないうちに咳ばらいをして、


「もうそろそろ帰ろうか。寒いし」


 そう言って、ベンチから立ち上がった。


 けれど彼女は立ち上がらず、じとっとした目を僕に向けてきた。そのとき、どこからか振動音が響いてきた。沢元が身じろぎして、横に置いてあったスマートフォンを取り出した。


「どうしたの?」


「親からのライン。買い物頼まれちゃった」


 返事でも書き込んだのだろう、ささっとスマートフォンを操作して、ポケットにしまった。


 それから僕を見て、こう言った。


「青木君も一緒に行かない?」


 〇


 時刻は、八時を少し過ぎた頃だった。

 

 僕たちは二人で住宅街の道を歩いていた。大きな車道が近くを通っており、車の走行音が響いている。通り過ぎる家々からは、入浴剤の匂いがわずかに漂ってきていた。


 それまで会話はほとんどなかったけれど、あるとき、沢元が前を向いたまま言った。


「それで、今日は一体亜実と何を話してたの?」


「亜実?」


「湯川亜美。放課後、二人で話してたじゃない」


 でた。

 いつか聞かれるだろうとは思ってたけれど。


 今日の放課後の出来事と、そして彼女から言われた言葉が頭をよぎる。沢元は僕の横で前を向いたまま歩いており、その表情はよく見えなかった。


 視線を前に戻すと、街灯の白い光がまっすぐに連なっているのが見えた。道の先は暗くて見えず、その光の列はどこまでも続いているように思えた。


 どう答えたらいいだろうかと考えたあと、僕は言った。


「秘密って言われてたから。湯川さんに」


 すると、「なにそれ」と沢元は言って、少し大げさな身振りで僕のほうを向き、僕の腕をとって、軽く揺さぶった。


「ねぇ、一体何言われたの?」


 ふざけているわけではなく本当に心配そうな感じで、なかなか手を放してくれなさそうだった。彼女の手のひらの温度が、服越しに伝わってくる。真っすぐに僕を見てくる目と、まともに目が合ってしまった。


 う、と思った。


 約束を破ることになってしまうけれど、僕は放課後の会話の内容を彼女に伝えることにした。全部、こちらにぶん投げてきたのだから湯川も悪い。それに、彼女の様子は全体的に冗談めかした感じだったから、破るとまずいようなことでもないだろう。


 しかしいざ口に出そうとすると恥ずかしくなってしまって、なかなか言葉が出てこなかった。


「ねぇ」


 沢元が僕の腕をとったまま、ゆさゆさと揺さぶる。


 そして、まるで逆さにして揺さぶられたポケットから小銭か何かが出てくるみたいにして、言葉が出てきた。


「席替えのとき、班長が班員を選べるって」


 彼女はまだ僕の腕を持ったままだった。というか、だんだん位置がずれてきて、今では僕の手首のあたりを握っている。


 湯川との会話の内容を話した途端に彼女は固まってしまって、なかなか動きださない。僕は無言の沢元に、ずっと手首を握られていた。


「あの、沢元さん、手……」


 僕が視線を手に向けていうと、彼女も、そちらに視線を向け、我に返ったように、ぱっと手を放した。次第に沢元の顔が赤くなってきていた。「えー」と「うー」の中間あたりの、なんだか困ったような声を出している。


 しばらくすると、彼女は再び僕を下から見上げるようにして言った。


「他には何か言ってた?」


「……俺と沢元さんが仲良くなれたみたいで良かったとかなんとか……」


 その他まだいろいろ言われたような気がするけれど、何か恥ずかしくてうまくそれらを言葉に出せなかった。沢元の方も、また固まってしまっていた。会話がぴたりと途切れた。どこかの草むらから、近頃はだいぶ静かになってきていた秋の虫の音が聞こえた。


 〇


 彼女は、何も言わずに歩いている。


 僕も何も言うことが出来なかった。ただ、彼女の歩調に合わせてゆっくりと、住宅街の通りを歩き続けた。


 ふと横目で彼女のほうを見ると、その頬は少しだけ赤くなっているように思えた。そしてそれを見るたびに、僕の胸の奥にも、またあの得体の知れない熱が生まれた。それを息にして吐きだすと、肌寒い夜の空気に白く浮かんだ。


 目的のスーパーの建物の光が、だんだんと近づいてくる。


 無言のまま、僕たちはその敷地内に入り、駐車場を通っていった。店内の照明の明かりだけではなく看板や車の光も様々な方角から僕たちを照らしていて、僕たちの周りにはいくつもの方向へ向かって、重なり合うようにして影が伸びていた。


 自動ドアを通って中に入ると、店内には、暖色の混ざった光とのんびりとした感じの音楽が満ちていた。


「すぐに、済ませるね」


 沢元はそう言って、スポーツウェアを着たまま買い物かごを持って、てくてくと歩き始めた。さっきまでの緩やかな歩調ではなくて、学校での彼女を彷彿とさせる、てきぱきとした雰囲気をまとっているように思えた。


 野菜売り場を通り、肉や魚のコーナーを通り、大量の飲み物が並んだ冷蔵庫の前で彼女は立ち止まって、牛乳を選び始めた。


 牛乳のすぐそばには、紅茶やカフェオレなどの飲みものも置かれていた。そこに、この間彼女からもらったレモンティーのパックがそこにあることに気がついた。それを見た瞬間、数日前、彼女が引っ越していく街のことを調べながら飲んでいたときの味が、ふと口のなかに広がった気がした。


「この間、ありがとう」


 と、僕は言った。沢元は牛乳パックに書かれた賞味期限を確認しているところだった。ぱっと僕の方に振り向いて、首を傾げた。顔の周りの髪の毛がささっと揺れた。


「これ、飲んだよ」


 レモンティーを見ながら言った。すると、彼女も僕の視線を辿った。そしてその直後、彼女の顔にふわっと笑みが広がったような気がした。


「美味しかった」


 僕が言うと、


「ほんと?」と彼女は嬉しそうに言った。


 うん、と僕は頷いた。


「そっか。よかった」


 彼女は手に取っていた牛乳をカゴに入れながら、柔らかな口調でつぶやくように言った。


 僕はまた一つ買って帰ろうと思って、そのレモンティーを手に取った。彼女もひとつ、それをカゴに入れた。たったそれだけのやりとりだった。けれど、ここまで歩いてくるまでの間、僕たちを包んでいた空気が少し変わったように感じた。


 僕たちは、学校でのことや、店内で見かけたお菓子のことなんかを話しながら、ゆっくりと歩いた。お店のフローリングの床はよく磨かれていて、天井からの光を反射させている。人影はまばらで、レジも空いている。レジの前に立っている店員の人も、どこか暇そうな雰囲気をまとっていた。店内の空気は暖かくて、ほっとするような、心や身体が、弛緩していくような空気が漂っていた。


 その雰囲気に、僕は以前に彼女が夜のスーパーで買い物をしている時間を『優しい感じの時間なんだ』と表現していたことを思い出した。

 

 

 店内を一回りして会計を済ませたあと、彼女は白いビニール袋を持ち、僕はテープを貼ってもらったレモンティーのパックを持って、再び肌寒い外へ出た。店内が暖かかったからか、外は店に入る前よりも寒く感じた。


「もう冬だね」


 光に満ちたスーパーの駐車場から出て、薄暗い通りに入ると、彼女は独り言のように言った。言葉と共に吐き出された彼女の息が、白く浮かんですぐに消えた。


 僕は頷いた。


「秋と冬の境目って、どこにあると思う?」


「え?」


 僕が言った言葉に、きょとんした表情を浮かべて彼女は首を傾げた。それから少し考えるようにうーん、と唸ってから答えた。


「どこだろう。立冬の日とか?」


 彼女は言ってから、「でも、はっきりした定義があるわけじゃないよね」と、考え込むように続けた。


「言葉の上では、もしかしたら何か決まりがあるのかもしれないけど。でも、なんとなく、秋と冬の境目を感じるところって、他の季節の変化に比べて曖昧な気がしてたんだ」


「どういうこと?」


 少し興味を引かれたように、彼女は僕のほうを見て聞き返した。


「他の季節の変わり目は、その境界をはっきり感じられる瞬間があるんだ。例えば、春は、桜が咲いたら。夏は、梅雨が明け日とか、蝉が鳴き出した時とか。秋は、長袖を着始めときとか。だけど、秋から冬の場合は、なかなかそういうのが思いつかなくて」


 沢元は黙って僕の話を聞いていた。けれど、うまく言いたいことを伝えられているかどうかはわからなかった。話していて、まるで、実体のないものを掴み取ろうとしているような気がした。


 僕はなんとか言いたいことを整理しようと、言葉を選びながら続けた。


「なんていうか、冬って、いつの間にかなってる感じなんだ。地域によっても違うと思うけど、この辺りだと、一月に入るまでは滅多に雪も降らないし」


「なるほど」


 沢元は、少し考え込むようにして頷いてから言った。


「なんとなく、言いたいことわかると思う」


 僕はふと空を見上げた。夜空は真っ暗だった。ぽつぽつと浮かんでいる星の瞬きまでもがはっきりと見える。僕たちの吐く息は白く、風はとても冷たい。秋の虫の声は、もうほとんど聞こえない。でも、まだ冬とも呼びづらい。曖昧な季節だ。


 少しの間会話が途切れた。僕たちが歩いている通りは高台になっていて、建物があまりないところからは、遠くの街の光が見えた。その遠くの光は密集していて、まるで一つの光のかたまりのように見えた。


「そういうのって、あるよね」


 ぽつりと、沢元の声が聞こえた。隣を歩く彼女に視線を向けると、彼女は同じように、独り言のような口調で続けた。


「いつが始まりか、わからないことって」


 沢元が、右手に持っていた荷物を、左手に持ち替えた。ビニール袋の持ち手の部分は細く締まっていて、冷たい空気に冷やされた手に食い込んでいるように見えた。


「荷物、持とうか」


 僕が言うと、彼女は「え?」と不意を突かれたように顔を上げた。


「平気だよ。そんなに重くないし」


 けれど、言い出しておいて、引き下がるのもちょっと気まずかった。


「いいよ」


 僕は、手を差し出し続けた。すると、彼女は少しためらいがちな様子ではあったけれど、ビニール袋を僕に手渡した。


「ありがとう」


 うん、と僕は頷いた。二キロくらいの重みが、手にかかる。確かに、僕が思っていたほど重くはなかった。


「わたしも、そうだった」


「何が?」


「青木君のことに興味を持ちはじめたの。何月何日だって、思い出せない。毎日日記を書いてるけど、たぶんそれを読み返してもわからないと思う。……いつの間にかだった」


 彼女の言葉はすぐに冷たい空気のなかに溶けていく。雪がとけていくような、そんなイメージとともに、その言葉たちは、ゆっくりと僕のなかに染みこんできていた。


「いつの間にか、一緒に走って、いつの間にか、一緒に買い物して、荷物を持ってもらえるようになってた」


 少しだけ冗談めいた口調で、彼女は続けた。視線を向けると、彼女の表情には、かすかだけれど、柔らかな笑みが浮かんでいるような気もした。


 道を曲がり、たくさんの家々が並ぶ通りに入った。同じようなデザインの家が並び、白い街灯が等間隔に立ち、無秩序に電線が夜空を区切っている。


 白々と灯っている街灯の真下に差しかかったとき、ふと横を見たら、彼女の顔が少し赤くなっていることに気がついた。


「始めてだったから」と、彼女は少しだけ歩調を緩めながら言った。


「男の子に、……興味、を持つのとか」


 興味、と僕はまた思った。


「それが、一学期の終わり頃くらいから、どんどん高まってきちゃって……」


 一学期の終わり頃。その言葉を聞いて、終業式の日に手を振っていた彼女の姿が脳裏に過った。


 そう言っている間にも、僕たちの歩みは次第に遅くなっていた。けれど、遅くなっているのは僕たちの歩みではなくて、この夜の時間の流れ方そのものの方であるような、不思議な感覚がした。


「青木君は、一学期の終業式の日のこと、覚えてる?」


 僕は頷いた。


「俺の近くにいた人に振ってたのかと思ったんだけど、確かに俺と目が合ってたから。……その、なんだったんだろう、とは思ってた」


 そう言うと、彼女は、立ち止まってしまった。どこかから、車が走っていく音が聞こえた。それが遠ざかると、あたりは全くの無音になった。風も今はない。ただ冷たい空気だけが僕たちを包んでいる。


「あの日、これから一か月以上も会えないんだって思ったら、知らないうちに、手が動いちゃって……。家帰ってから、変なことしちゃったって、わたしも、夏休みの間中、ずっと気にしてた。変な女子だって思われたらどうしようとも思った。――あのとき、変に思わなかった?」


 彼女は、湯川との「秘密」の話を聞き出そうときのような、心配そうな表情をしていた。


「不思議には思ったけど……。変な人だとは思わなかったよ」


「本当に?」と彼女は言った。


 うん、と俺は頷いた。


 冷たい風が吹いた。その風の冷たさで、いつの間にかずいぶんと、顔がほてってきてしまっていたことに気がついた。僕たちはしばらく黙ったまま、向かい合って立っていた。僕は、彼女に対して何かを言うべきだったと思った。けれど、なかなか言葉が出て来なかった。


「行こうか」


 ふと、彼女が言った。顔を上げると、それまでの空気を換えようとするかのような、明るい笑みを浮かべていた。


 反射的に僕は頷いた。もうすぐそこにあった沢元の家の前まで歩くと、いつもように別れの言葉を交わして、彼女は家のなかに入っていった。僕はひとり、夜の道の上に残された。ひとりになっても、彼女と交わしていた言葉の余韻が、ずっと胸を打つように響き続けていた。

 

 

 結局、その日が僕と彼女が一緒にトレーニングをする最後の日になった。土日を挟んで週が明け、その週の水曜日に、市内の駅伝の大会があった。


 朝から選手は市内の運動公園に集まり、市の教育委員会だか市議会議員だかの偉い人たちが短い挨拶をし、その後、競技が始められた。


 男子は一周二キロの運動公園内のランニングコースを途中まで走り、その後少しだけ近くの河川敷に出て一キロ分だけ走り、その後再び公園内のランニングコースに戻って、合計三キロを走り、女子は運動公園内のランニングコースを一周だけ走る。


 男女とも六区まであり、それぞれの学校は二チーム出場する。つまり男女合わせて、一校あたり二十四人が出場する。僕たちの学校では、練習のときに計測したタイムによって、AチームとBチームの二つに分けられた。そのチーム内で何区を走るかは、タイムに関係なく、この駅伝のチームを指導していた体育教師が決めた。


 沢元は女子のAチームの二区を走り、僕は男子のAチームの五区を走ることになった。


 スタートは女子のほうが先だった。僕は、公園のなかでストレッチやアップをしながら、遠めに、女子生徒たちがランニングウェアを着て走っているのを見ていた。


 教師たちや、駅伝のメンバーに選ばれたものの走者からは漏れた生徒たちが、公園内のいくつかのポイントに立って声援を送っていた。


 男子の競技が始まる時間になると、スタートの合図のピストルの音が聞こえてきた。


 僕は準備を一人で続け、出番が近づいてきた頃にスタート地点に向かった。周囲にいた同じ学校の生徒や体育教師から掛けられた「頑張れよ」というような声に頷きつつ、スタートラインに立ち、コースを走り切って戻って来た二年生からタスキを受け取って、走り始めた。


 別に順位がどうなろうが、どうでもいい大会だった。けれど、僕が走り出した時点で、僕たちは全部で六校が出場しているうちの三位にいて、ほとんど並走している一位と二位の背中が見える位置にいた。二百メートルほど先といったところだっただろうか。


 走り始めてすぐ、調子のよさを感じた。身体は軽く、追いつけそうな気がした。僕は、自分が三キロを走るときの限界のペースまで上げて走ることにした。寒い日だったけれど、すぐに汗が流れ始めた。


 すぐに、公園内のコースの終わりが見えてきた。公園の外に出ていくところで、沢元が湯川と一緒に、うちの学校のジャージを着て、コースのすぐそばに立っているのを見つけた。


「がんばれー」と、湯川が明るい声で僕に声をかけた。沢元は、握った手を小さく上げていた。彼女と目が合った。学校にいるときのような、すました感じの表情だったけれど、「頑張って」という彼女の声が耳に届いた。


 僕は小さく頷いたあと、すぐに視線を前に向けて、そのままのペースでそこを走りすぎた。彼女たちは、すぐに視界から消えていった。


 〇


 結果として、僕は前を走る二人を、あと十メートルほどの距離まで追い上げることが出来た。最後の六区において、この学校で一番長距離走が速い元陸上部の三年生が一位と二位を抜いて、僕たちの学校が優勝することになった。


 体育教師は喜んでいたが、何度も言う通り、特にこの大会で優勝したからといって僕たちに何か良い事があるわけではないので、選手たちはゴールの瞬間に少し盛り上がっただけだった(ちなみに、沢元が走ったチームは女子の四位だった。彼女自身は、区間のなかでは二番目となるタイムを記録していた)。


 大会自体は二時間ほどで終わり、昼休みの時間には学校に戻った。指導していた体育教師が短く総括の挨拶をし、それであっけなく解散になった。


 駅伝のメンバーはこの日、公欠扱いになっているので、午後の授業には出なくてもいいということだった。これが駅伝大会に出たことの最大の特典と言えば、特典になるのかもしれない。


 僕たちは体育館に荷物を持ち込んでいたので、そのまま、騒がしい昼休みの学校を抜けて、家に帰っていくことになる。


 大会の最中には晴れ渡っていたけれど、僕たちが帰宅する時には空には重く湿り気を帯びた灰色の雲が立ち込めていた。たしか天気予報では、夜から雨が降ると言っていた。


 僕たちは学校指定のジャージのまま、体育館から昇降口に向かっていった。僕はリュックを背負い、近くにいた少しだけ面識のある三年の男子と一緒に歩いていた。少し前には、沢元と湯川が二人で歩いていた。にこにこしながら湯川がしきりに何かを沢元に話しかけ、沢元は頷いたり、短く何か言葉を返したりしていた。


 蛍光灯の明かりが灯った昇降口で、上履きから靴に履き替える。下駄箱はクラスごとに指定されているので、自然、かたまりになって歩いていた僕たちの集団は、クラスごとにばらけた。僕もそれまで一緒に歩いていた男子と別れて、自分の下駄箱に向かった。


 白々と明かりに照らされた昇降口から見る曇り空の外は、ずいぶん薄暗く見えた。少し凹んだ金属製の下駄箱の扉を開いて、上履きをしまう。僕の近くで、湯川と沢元が、スニーカーを履いていた。


「お疲れー」と湯川が声を掛けてきた。


「青木君、今日大活躍だったね」


 いきなり声を掛けられて、うまく反応できず、僕は曖昧に頷くことしかできなかった。大活躍、というほどでもなかったと思う。一番活躍したのは最後の区間を走った元陸上部の男子だ。


 湯川は僕が何も言わなくても何かいろいろと話しかけてきて、僕たちは、なんとなく三人で一緒に昇降口を出て、そのまま歩きだした。校舎を出て、学校前の通りを歩いていく。周囲には住宅と、小さな公園と、古い個人商店と、それからすでに多くの葉を散らした街路樹がある。風が吹くと、道端に落ちている枯葉が小さく舞った。


「今日、寒いね。マフラーとか持ってくればよかった」と、校門を出たときに湯川が首をすくめながら言った。


「夜は、十一月で一番寒くなるらしいよ」と、沢元も寒そうにジャージの袖を指先まで伸ばした。


「てか、もう十二月になるもんね。期末の勉強も始めなきゃ」


 だるー、と湯川が言うと、沢元が苦笑しながら「頑張って」と言った。


「そういえば、青木君って成績いいの?」


 湯川が、ふと思いついた、という感じで僕に話を振ってきた。


「普通。でも、数学はもうちょっと勉強しないとまずいかも」


「優美に教えてもらえば?」


 それまで黙って歩いていた沢元がぱっと顔を上げた。そんな彼女をちらりと見て、湯川はにやにやと笑った。


「図書館とか、カフェとか、休みの日に一緒に行って、勉強したりするの、いいんじゃないの。私も何回か優美に勉強教えてもらったけど、教え方上手いし、捗るよー」


 沢元は困ったように僕と湯川を交互に見て、それから下を向いた。


 やがて十字路に差しかかると、湯川と沢元が立ち止まった。僕が二人を見ると、湯川が手で右の方向を示して言った。


「わたしの家、こっちだから。じゃあ二人とも、またねー」


 何か含み笑いのようなものを浮かべて彼女はそう言って、手を振りながら右に曲がっていった。リュックを背負って、てくてくと歩きながら遠ざかっていく姿を、僕と沢元は突っ立ったまま見ていた。


 近くには、駅伝のメンバーだったと思しき後輩の女子(ジャージの色で二年生だとわかる)が二人歩いているだけだった。


「……行こうか」


 僕が言うと、沢元が頷いた。僕たちは二人で歩き出した。昼の住宅街には、夜とはまた違った静けさが横たわっていた。空は相変わらず灰色のままだ。何の変化もない。時間の流れを感じさせなくなるような空だった。


「疲れたね」


 沢元が、小さなため息のような息を吐いたあとに言った。


「三キロしか走ってないけど、やっぱりいつもと違う場所でいつもと違うことすると、疲れるよね」


「そうだね」と僕も言った。


「青木君は、帰ったら何するの?」


「とりあえずシャワー浴びてゆっくり寝て、夕方くらいからは期末の勉強かなぁ。沢元さんは?」


「ん。わたしもそんな感じ」


 彼女は短く言った。昼を過ぎたものの、気温はあまり上がらず、空気はとても冷たかった。底冷えがし、まだ十一月だとは思えないほどだ。指先もかじかんでいた。


 冷たく強い風が吹き、彼女が首をすくませた。


 僕たちは寒さに耐えるようにゆっくりと歩いていた。やはりこの時間帯のひとけは少なく、五分ほど歩いていても、厚着をした何人かの人とバス一台とすれ違うだけだった。近くを歩いていた後輩の女の子たちはいつも間にかどこかに消えていた。


 僕たちはそれ以降、言葉を交わさなかった。ただ二人分のスニーカーの足音だけが、陽のささない、灰色に染まった街に響き続けていた。


 やがて彼女の家の近くに着いた。彼女は立ち止まって、ゆっくりとした動作で僕に向き直った。それから、ありがとう、とぽつりと言った。


「この二週間くらいの間、一緒に走ったり、買い物行ったり。楽しかった」


 僕も彼女も、立ち止まったまま動かなかった。一向に陽が射す気配はせず、まるで夕暮れ時のような薄暗さだった。


 僕は頷いた。彼女と二人で過ごしていた時間が頭のなかに浮かび、それがもうこれで終わりだと思うと、寂しかった。正面に立っている彼女の姿を見ていると、その気持ちはさらに強まった。


「俺も、楽しかった。沢元さんと過ごせてよかった」


 言い終えてから気恥ずかしさがじわじわと胸のなかに広がっていた。


「これから受験で忙しくなるだろうけど、春まで、出来るだけ、一緒に居られたら嬉しい」


 彼女の顔を見ると、びっくりしたような表情を浮かべていた。けれど、すぐにふわっと柔らかな笑みを浮かべて、頷いた。


 間近で、目があった。意志の強そうな目が、一緒に走っていたときに見た冬の夜空よりも美しく感じて、どきりとした。


「また、連絡するから」


 僕が言うと、ふいに、僕と彼女の手と手が触れあった。無意識のうちに手が動いていて、指先が触れあったのだった。それで、僕たちがとても近い距離で向かい合っていたことに、今さら気がついた。彼女は恥ずかしそうに笑んで、一歩後ろに下がった。


「うん。わかった。また明日、学校でね」


 そう言って、彼女は小さく手を振った。手を振っている姿が、夏休みの前の日に見たときの彼女の姿と重なった。けれど、今の彼女の表情には、あの時よりも、ずいぶんと親しみのようなものが籠っているような気がした。


 僕は頷いて、曇り空の下の道を、一人で家に向かって歩き出した。指先には、まだ彼女の指が触れたときの感触が残っていた。


 この二週間ほどで、気温は随分下がり、木々についていた葉はもうかなり少なくなっていた。空は相変わらず灰色のままで、重そうな雲に覆われている。


 小さく息を吐いた。灰色の街のなかに浮かび上がったその白い息は、すぐに消えていった。


 家に帰ったあと、僕はシャワーを浴びて汗を流し、温かな服に着替えて、パーカーを上に羽織った。両親は仕事に行っているから、家のなかは静かだった。部屋に入ってカーテンを閉めたら、曇り空の日の明かりはほとんど遮られ、まるで夜のように暗くなった。


 しんとした冷たい空気のなかベッドに入って、目を閉じた。疲労感が身体中に広がっていくのを感じた。眠りに入る前までの間、頭のなかには、沢元に関する記憶が思い浮かんでいた。例の一学期の終業式の日、手を振ってきた彼女を目にしたときから、ついさっき、一緒に歩いてきたときまでの記憶が、意識が途切れるまで頭のなかに浮かんでいた。


 目を覚ますと、部屋の中の闇は一段と濃くなっていた。


 僕は布団から出て立ち上がった。途端に、ひどく冷たい空気に包まれて、鳥肌が立った。暖房が必要な寒さだった。僕は首をすくめ、パーカーのフードの部分を少し持ち上げ、首元を温めるようにした。


 それからふと、部屋のなかの暗さに反して、カーテンの向こうはが妙に明るいような気がすることに気がついた。なんとなく僕は窓辺に近寄ってカーテンを開いた。


 雪が舞っていた。それはとても細かくて、積もって残りそうなほどではない。けれど、人通りのない道路や周囲の家々の屋根はうっすらと白くなっていた。


 いつの間にか季節は変わっていたのだと、僕は窓の外を見ながら思った。


 次に暖かくなってくる頃には、受験も終わって進路が決まり、僕たちは中学を卒業する。そして、彼女は僕の知らない街へ引っ越していく。たった数か月先のことなのに、うまく想像できなかった。とても濃く感じていた数週間を過ごした今、それはひどく遠い未来のことのように思えた。


 今はただ、何かが変わったような、そんな気持ちだけが、僕の胸のなかにあった。

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