2018/03/09

掌編:夜の海辺


ここはどこだ

 書きながら僕はそう考えた。 書かれた言葉だけの世界、それ以外はなにもない。時間も、空間も、光も、重力も……。
 僕とはだれか?
 ここでは僕は誰でもない。ただの視点をもたらすもの。この文章を書いているものであり同時に、おそらく語り手と呼ばれるはずの、この世界の内側と外側を仲介するもの。

 最初の取っ掛かりとして、僕は次の一文を書く。

空白であった空間に、ひとりの女が現われた 
 
 次に空間を僕は決定しよう。彼女に形を与え、そのままでは文字記号の連なりに過ぎないもののなかに、小説世界の空間をつくり出していこう。

 そこは、夜の海辺だ。季節は冬で、海風はひどく冷たい。彼女はセーターを着ている。色は赤。あるいは、これを読んだ人間の頭に浮かんだ「赤」という色、それが彼女の着ているセーターの色ということになる。読んでいる人間に正確な色味を言葉で説明することが困難なように、質感もまた、言葉では表現することが原理的に難しい。柔らかな、あるいはチクチクした、そんな言葉からイメージされるなにか。描写の本質はイメージを喚起すること、読者にある感覚を発生させること。しかしそれがどのようなものであるかは、厳密には、書く人間が知り得ることではない。

 彼女は寒い海辺に立ち、穏やかな波音を聞いていた。それから彼女は波打ち際へ歩きはじめる。足を交互に動かして、膝を曲げ、地に足を着けて。ここで僕は彼女の靴について描写していないことに思い至る。しかし小説のなかでは小説に書かれたものしか存在しないのでそんなことはどうでもいい。とにかく彼女は波打ち際に進むのだ。小説のなかの人間は、どんな足を持つのか定かではなくとも、そもそも足があるのかどうか決められていなくとも、「歩いた」と書かれたら歩いたことになるのだ。小説の情報量では現実の情報全てを記述しえることなど不可能だ。彼女の血液型も、年齢も、髪形も、ホクロの位置も、予防接種の痕も、頬に出来たニキビも、身長も体重も僕はここで語ってはいない。小説のリアリティーとはそのようなものなのだ。どこまでいっても不完全な上、細かく書けば書くほどに、全体のイメージは分解され、異様なものになっていく。

あるいは、こんな描写をつけたそう。彼女の歩みの様子に関する情報を加えるために。

 彼女のブーツが砂を踏みしめた跡が、一つ、また一つと砂浜に刻まれていく。歩くたび、砂を踏むわずかな震動が、彼女の背に伝わる。

 波打ち際の、海水に黒々と濡れた砂は柔らかくなっていて、彼女のブーツはそこで少し沈みこんだ。彼女はしゃがみ込み、寄ってくる波に手を触れた。

 冷たい空気に冷やされ、赤々とささくれていた彼女の指先は、意外にも生ぬるかった海水に暖められた。その波は、暖かさと、弾けていく泡立ちによって、彼女の指にくすぐられているかのような感触を与えた。

 海のむこうには何もない。

 ――何もない? あるいは暗すぎて見えないだけか。

 しかしこれは小説だ。このあたりもでっち上げておく必要がある。どうせそれが真実かどうかという問いは無意味なのだから。

 例えばこんなふうに。

 あたりは暗すぎて、彼女には何も見えなかった。ただ波の打つ音、白く泡立った波がはじけて行く音だけが聞こえる。燈台の明かりもない。ただ薄雲に輪郭を暈された黄色い月が見えるだけだ。

 そうして彼女は再び立ち上がり、波打ち際に近づいたことによって先ほどとは微妙に聴こえ方が異なった波音に耳を澄ませた。巨大な海の前で、その周期的なざわめきのリズムに心を委ねた。

 彼女が何を考えていたのか、何を思って海辺で波の音を聞いていたのかは、これを読む人が感じ取ったことによって形成される。そういう意味では、巨大な海ほどの大きな隔たりがあるはずの小説の世界の「彼女」の内面と、小説の外側の世界の読者の内面は繋がっている、とも言えるのかもしれない。

  彼女は僕であり、同時にあなたでもある。
 

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