2018/02/24

掌編:眠れない夜に

「じゃあ、また明日」

 分かれ道で立ち止って、沙智子は他の三人の友達に向かってそう言った。ここから先は、他の三人は同じ右側の道を歩いて行くが、彼女だけが左側の道で帰宅することになる。

「うん。またね」

 幼馴染の詩織が笑みを浮かべて答え、それに続いた他の二人の友人たちの別れの挨拶を聞きながら、彼女は手を振り、一人で歩き出した。日没の時間をわずかに過ぎ、周囲はぼんやりと薄暗い。陽が暮れてから気温も下がってきたみたいだ。肌寒さに、彼女は羽織っていた赤いカーディガンの袖を引っ張って、手の甲までを覆った。

 今日は、詩織の買い物に、お昼から付き合った。昨日、所属している吹奏楽部の練習の終わりに、詩織から声をかけられたのだった。

「サチ、明日ヒマ?」

 サックスをハンカチで拭きながら、詩織は言った。

「なんで?」

 フルートをケースに仕舞いながら、沙智子は答えた。

「明日ね、うちのクラスの友達と買い物に行く予定があったの。よかったらどうかなと思って」

「それって誰?」

「えっと、Sさんと、Nさんと」

 皆、知っている名前だった。話したこともある。どの子も、あまり目立たない、大人しい女の子たちだった。

「うん。わたしもいく」

 その人たちと一緒なら、気まずい思いもしないで外出ができるだろうと考えて、沙智子はそう答えた。

 ――けれど、なぜ彼女がわたしを誘ったのか――

 詩織と休日に遊びに行くことは、中学生のころにはよくあった。学校の帰りに近くのショッピングモールに寄ったり、テスト前にはドーナッツショップで一緒に勉強をしたり、今のような季節の変わり目には買い物に行ったり……。しかし、同じ高校に進学してからこの一年の間、彼女とは疎遠になっていた。中学に進学したときに同じクラスになり、さらには同じ部活にも入ることになって、ずっと仲良く付き合っていたのだけれど、高校に入ってからは、なんという理由もなく、彼女と一緒過ごす時間は減っていき、最近では、部活でコミュニケーションをとらなくてはいけないとき以外には、ほとんど話をしなくなっていた。

 高校生になって、詩織は変わった。

 中学生の頃にはいつも一つに束ねていた髪の毛を伸ばし、とても手間をかけていることがわかる、綺麗でおしゃれな、内巻きのパーマをゆるくかけたミディアムロングの髪型になり、学校にいるときにも、うっすらと化粧もしていた。どこが、と言われて指摘するのは難しいくらいに些細なレベルでだけど、言葉の使い方や、会話のときの、リアクションの取り方のようなものも、中学生の頃とは違う。

 誰かと付き合っている、という話は聞かないけれど、彼女は、元気が良くて、派手な女の子のグループのなかにいて、容姿がよく、学年でとても目立っている男の子たちと一緒にいるのも、廊下なんかで、たまに見かけた。

 ――そんなときに彼女とすれ違うと、詩織はちょっとだけ、見下すような視線でわたしのことを見ていたような気がする。もちろん、彼女が何を思っているのかは、彼女にしかわからないけれど、でも、中学生の頃、仲が良かった頃には、詩織は、あんな目で、わたしを見たことはなかった。

 ――どうしてなんだろう。

 薄く暮れた道を歩きながら考えてみたが、詩織が今日自分を誘った理由は、わからなかった。彼女が肩にかけている茶色のバッグ――去年から使っている、落ち着いた茶色で、どんな洋服にも合うシンプルなデザインのもの――のなかには、今日買った、青いセーターの入った袋が入っている。

 ――何かの気まぐれでも起こしたのか、それともわたしと仲良くすることで、彼女にとって何かいいことがあるんだろうか。たとえば、わたしの友達の誰かと繋がるためのきっかけにしようとか……。でも、もしかしたら、詩織は、本当は何も変わっていなくて、ただ単に、わたしと久しぶりに楽しく遊びたかっただけなのかもしれないし……。

 秋の冷たい風が吹いた。傍を、原付自転車が走っていった。秋のひんやりとした空気に、安っぽい排気ガスの匂いが混じった。軽い衝撃が、沙智子の右足首にはしった。「わあ」と、無意識に声が出た。アスファルトに蹴躓いて、彼女はよろけてしまった。

 ――あぶない。昔から、考え事をしていると、何かにぶつかったり、何もないところですっころんでしまうことがよくあった。お母さんや友達に、そのたびに呆れられたり笑われたりしてきた。

いくら考えても、すっきりしそうにはなかったから、沙智子は、考え事をやめた。脇の民家の庭から、金木犀の甘い匂いが漂ってきた。住宅街の家々の上に見える薄い紫色だった空は、徐々に昏くなってきていて、鉄塔の先についた赤いランプがゆっくりと明滅していた。


 その夜、沙智子は眠れず、暗い部屋のなかで、枕もとのスタンドの電気を灯した。オレンジ色の柔らかい光が、ぼんやりと沙智子の周りを包む。

 中学生の頃使っていた古い機械式のメトロノームが、目覚まし時計の横にあった。もう長らく、楽器の練習用としては使っていない。ベッドサイドのインテリアになっている。

 沙智子は、メトロノームのおもりを動かし、ゆっくりと、自分が心地いいと感じるリズムにテンポを設定した。動く振り子と、それが奏でるリズム、そして左右に動いている金属製の振り子が、リズムに同調しているかのように、ベッドサイドのオレンジ色の光を暗闇のなかで規則的に反射しているのをしばらくぼんやりと見続け、それから明かりを消し、枕に頭を埋めて、深く息を吐き、目を閉じた。

 ――これがわたしのリズム、と沙智子は思った。大体、テンポ50。このくらいのテンポが、一番、落ち着く。

 深く息を吸い、目を閉じる。そして、考え事の種が膨らみ、芽を出し、それが、ゆっくりゆっくりと、彼女の意識のなかに伸びていった。

 もしかしたら、と彼女は思う。

 もしかしたら、詩織のリズムは、わたしよりも少し早くて、今まではかみ合っていたものが、ゆっくりゆっくりと、ずれてきていたのかもしれない。そのずれが、高校生になって、はっきりと表れたんだろう。

 でも、今日は、久しぶりに詩織と一緒に遊ぶこと出来て、楽しかった。お化粧をして、おしゃれな髪型をして、少し派手な格好をした詩織から、少しだけ、昔、彼女が持っていたものを、感じることが出来た。

 ――彼女にとって、わたしはテンポの遅いメトロノームなのかもしれない、と思った。彼女は、もっと早いリズムで生活したいのかもしれない。もっと早く、大人に向かって、自分の時間を進めたいのかもしれないと思った。わたしと一緒にいたら、わたしの遅いテンポに影響されてしまって、それが出来ないのではないか。だから、彼女は、わたしと、距離を取るようになったのではないか。

暗闇のなか、ベッドに身体を横たえながら、沙智子は、ずっとそんな考え事に耽っていた。

 かち、かち、かち、かち、と、沙智子に心地よいリズムを、中学生の頃から使っているメトロノームは、刻み続けていた。沙智子はそのリズムに心を休められていくような思いで、閉じた瞼の裏側の、深い闇のなかに、意識を沈めていった。

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