2018/06/03

短編:初夏の日の違反


 その日の下校時刻、昇降口の電灯は消されていて薄暗かった。冬の特に陽の短いときだと、四時過ぎでもすでに真っ暗になっているのだけれど、夏になったばかりの今は、濃い灰色にわずかに青味を加えたような明るさが残っている。外から差し込んできている夕陽によって、生徒たちの雑な扱いによってところどころ凹んでいる古い金属製の下駄箱が、赤色に照らされている。
 
 僕は自分の下駄箱の扉を開き、スニーカーを取り出し、踵のつぶれた上履きをしまった。それからドアを閉め、半ば放り投げるようにスニーカーを地面に下ろすと、後ろに人の気配を感じた。

 振り返ると、安藤という女子が、半袖のブラウスの肩にトートバッグをかけ、僕たちのクラスの下駄箱と向かい合う位置に置かれている隣のクラスの下駄箱の前に立っているのが見えた。ごそごそと上履きを脱ぎ、それを拾い上げるときに、濃紺の制服のスカートが持ち上がって、白い膝の裏がちらっと視界に入って、僕は反射的に目を逸らした。

 前からたまに、僕が帰宅するタイミングと、安藤の帰宅するタイミングは一致することがあった。彼女とは、小中と通して、同じクラスになることはなかったけれど、僕と同じ団地に住んでいるから、ずっと面識はあった。子供会の行事なんかで、何度か、言葉を交わしたこともある。けれど、それだけだった。一緒に遊んだことも、一緒に帰ったり、学校や近所で立話をすることすらなかった。


 僕は美術部に所属していて、彼女は書道部に所属していた。二つとも、あまり熱心な部活とは言えない。美術部は五人、書道部は四人と、本当に少しの部員しかいなかったし、休日に活動することもない。たまに何かの賞に入賞して、朝礼なんかで表彰されることはあるけれど、二つとも、文化部のなかでも、とても地味な存在だった。

 素早く白いスニーカーに履き替えた彼女は、一瞬だけ僕と目を合わせたあと、すたすたと歩いていき、昇降口を出て行った。僕も、スニーカーを履き、彼女に続いて、昇降口から出た。正面から、強い西日飛び込んで来て、僕は目を細めた。熱をもった風が吹いていて、リリリリリ、という、どこか幻想的な、ヒグラシの鳴き声が聞こえた。

 風が吹いて、木々に繁った、まだ新しい、鮮やかな緑色をしている葉が、さぁっ、と鳴った。遠ざかっていく学校のグラウンドから、運動部の掛け声や、ボールの弾む音、吹奏楽部の楽器の音が響いてきていた。

 安藤は、いつも学年でトップクラスの成績をとっていた。しかし学業以外では目立たない女子で、廊下ですれ違うときなんかも、一人でいることが多い。彼女は、クセのない歩き方をする。今も、トートバッグを肩に掛けたまま、まっすぐに、住宅街の道の端を、すたすたと歩いている。よそ見もせず、歩調を緩めたり早めたりすることもなく、一定の速度で、彼女は歩いていた。僕は彼女と一定の距離をとっていた。

 ☆

 周囲を淡い金色に染めていた光が、急に翳った。空を見ると、大きな雲が、太陽にかかっていた。自動販売機の白い光が、急に、浮かび上がるようにして、その存在感を強めた。

 安藤がその自販機の前でふと足を止めた。トートバッグを肩から外し、手を中に入れた。

 それから、お金を入れて、さっと手を伸ばしてボタンを押した。すかさず、ガタン、と飲み物が落ちてくる音が、意外なほどの大きさで、僕たち以外には誰もいない、小さな畑や公園、民家の立ち並ぶ通りに響いた。

 その姿を見て、僕は驚いた。僕たちの学校は変に校則がきびしくて、登下校中の寄り道は禁止、買い食いも禁止だった。見つかると、職員室に呼び出されることになる。何か事情がない限り、お金も学校に持って行ってはいけない。

 僕は一度、下校中にコンビニに寄った友達についていったことがあり、そのとき、見まわり中の教師に見つかって、翌日、三十分ほど、職員室で説教されたことがある。

 説教を聞いても、コンビニに寄ることの何がそんなにいけないことなのか結局よくわからなかったが、とにかく、僕の中学は、そういうところが、バカみたいに厳しいのだ。教室や廊下のどこかにアメやガムの包み紙が落ちていたら、それだけで「規律意識の低下が見られる」みたいな感じの学年集会が開かれかねない。

 僕は、足を止めた。彼女がふいに首を動かし、僕の方を見た。

「飲む?」

 彼女は僕に向けて、缶を差し出した。ぼんやりとした夕暮れのなかで、缶の縁が、鈍く光った。彼女が飲んでいたのは、「ドクターペッパー」だった。

 僕は、無言で、それを受け取った。彼女はじっと僕の方を見ている。こんなに間近で、彼女の顔を見たことは今までなかった。眉毛はすっと横に長く伸びていて、瞼は奥二重だった。僕は始めて、そんな彼女の顔の細かなところをはっきりと見た。

 無言の時間が流れた。受け取った手が、缶の冷たさを感じ、缶からは、表面に出来ていた水滴が、アスファルトへ流れ落ちていった。

 沈黙に、これから訪れるだろう気まずさの予感、のようなものを感じたころ、僕は、さっと手を動かして、一口だけ飲んだ。飲み口のところが、少し濡れていた。甘さと、そして「ドクターペッパー」独特のフルーティーな香り、そして炭酸の弾ける刺激が、口のなかを満たした。

「喉、乾いてたの?」

 僕は片手で口元を拭いながら、もう片方の手で缶を安藤へ返して聞いた。彼女は首を振った。

「別に」

「じゃあ、なんで」

「ストレス解消」

「は?」

 安藤は少しだけ、言葉を選ぶような間を置いてから、言った。

「お金、入れるじゃん。で、ボタン、押すじゃん。ガシャン、って音するじゃん。まずその音が好き。このへんに、一瞬だけ、響くあの音が」

 僕は首を傾げながら、はぁ、とだけ言った。

「いけないことの響き、みたいな?」

 彼女は、わからないのか、というようにわずかに目を細めて言った。

「よくわかんない」

 僕がそう答えると、彼女は一つため息をついて、

「まあそうだよね」

 そう言って、また一口ジュースを飲み、そのまま歩きだした。なんとなく僕も同じタイミングで歩きだし、その流れで、僕たちは並んで歩くことになった。

「今日は、特別、ムカついてて」と彼女は言った。

「何かあったの」

「教科書、忘れて、田嶋に怒られた。昨日、部屋で宿題やって、それでつい、カバンに入れるの忘れちゃってたんだけどさ。教科書置きっぱなしにして、直前の休み時間に適当に答え書いたり、誰かに教えてもらってる人たちが怒られないで、わたしが怒られるって、意味わかんない。うっかり、カバンに入れ忘れちゃうなんて、誰でもあるミスじゃん。なんでそんなことで怒鳴られなきゃいけないの」

 そう言うと、安藤はぐいっと、炭酸のジュースを飲んだ。田嶋は、僕たちの学年の数学の教師だ。そして学年で一番怒りっぽい教師だ。一週間のうち、四日は不機嫌な顔をしている。彼の授業中だけ、クラスは私語もせず、しん、と静まりかえっている。私語などしようものなら、おそらく彼は机や黒板をバンバンと手で叩きながら、その生徒を怒鳴りつけるだろう。

 僕は、田嶋が机に教科書を出していない安藤を問い詰め、ブチ切れながら説教をしているところを思い浮かべた。

「気の毒に……」と僕は言った。

 彼女は、そのときの感情を思い出しているのか、チッ、と舌打ちをした。そしてまた、ジュースを飲んだ。

「……いけないことして飲むジュースって、なんだかすごくおいしく感じるんだよね。ちょっとだけだけど、すっきりする」

 そう言って、また彼女は短い溜息を吐いて、「意味わかんない」と憎々しげに呟いた。

「君、だいぶストレス溜まってるんだね……。これがバレたら、教科書忘れたなんてのよりも、もっと怒られるだろうに」

 僕はそう言った。すると、彼女はきっ、と僕の方を睨み、

「他人事みたいに言ってるけど、君も同罪だからね。さっき飲んだんだから」

 僕は何も答えず、小さく息を吐いた。

どうでもいい、という気持ちと、もし学年集会とかになってつるし上げられたら、と思う気持ちの両方が曖昧に混ざり合っていた。しかし後者のことを想像してみると、腹のなかが冷たくなるような思いがした。僕と安藤が、体育座りをした学年の百五十人くらいの生徒の前で立たされている。そばでは田嶋がキレながら説教をしており、生徒たちからは、「お前らのせいでこっちまでウザい説教を聞かされることになった」というような迷惑げな視線や、つるし上げを食らっている僕たちをある種の見世物のようにして見ている意地悪な視線、それから、あいつらどういう関係なんだというような好奇な視線が注がれている。

死にたくなってくる想像だった。

誰にも目撃されていませんように、と、僕は内心で思った。横で、安藤はまた、缶に口をつけてそれを煽った。

やがて、僕たちの住む団地の敷地内に入った。道の脇の草むらから、昼間の暑さの名残りのような濡れた熱気と草いきれが漂っている。静けさのなかで、かすかに、ジー、という奇妙に機械的でも生物的でもある小さな音が、響いていた。それは夜の虫の鳴く声か、草むらのすぐ近くの駐輪場の錆びだらけのトタン屋根についている、長い間隔を開けて点滅している古ぼけた蛍光灯が発している音かもしれない。

ずいぶん暗くなった空を背景にそびえたつ、いくつもの団地の建物には、廊下や外階段のところに白い明かりが灯っており、遠くから見ると、それは星のように見えた。

カラン、という音が聞こえた。

音のほうへ目をやると、金属のカゴのなかに、安藤が空缶を投げ入れたところだった。

 僕の方をちらりと見て、「いつも、ここで捨ててるの」と安藤は無表情に言った。

 うん、と僕は自分でもどういう意味なのかわからない相槌を打った。それから少し歩いて、彼女の家のある棟の前についた。

 彼女は一度立ち止まると、「じゃあ」と言って、団地の建物の中へと入って行った。スカートの丈が膝よりも長い、どこか野暮ったい後姿が、階段の奥に消えていく。僕は狭い階段を上がって行く彼女の背中を少しの間見てから、また歩きだした。

 一人になると、なんだか、心寂しくなった。いつも一人で帰っていたのになんでだろう、変だ、と僕は思った。しばらくの間、ゆっくりと、暗さに薄れていく自分の影を踏むようにして歩き、そして後を振り返ると、住んでいる家の玄関を開けて、自分の家に入っていくの彼女の姿が外廊下の光に照らされて見えた。歩いていたときに見た彼女の横顔が脳裏に浮かび、それから、安藤が口をつけていた缶から飲んだドクターペッパーの味が、口のなかでふと蘇った。

0 件のコメント:

コメントを投稿