2018/08/06

中編:かつてそこにあったもの(1)/(3)

(2010年頃、僕が学生だった頃に書いた作品です

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 彼女の小さな言葉が風にかき消された。

 僕は「え?」と、横を向いて、隣りに立つ彼女に聞き返した。

「なんて強い夕陽、って言ったの」

彼女は前を向いたまま、言葉を繰り返した。涼やかな風が吹いていたが、それが途切れたときの空気は粘度が高くて暑かった。どこか遠くで、ヒグラシが鳴いている。

 僕は黙って、彼女が言葉を続けるのを待った。

彼女は、僕の方に顔を向けた。短い黒髪がさらりと揺れる。

「この街の夕陽は、強くて、それから長く続くの。私が小さな頃にいた田舎だと、すぐに山の向こうに沈んでしまって、夜の闇が訪れるけれど、ここは、昼と夜の境目が、ぼんやりとしてる」

僕は頷き、それから歩きはじめた。彼女もまた歩を進め始めた。あたりにひとけはない。周囲の寂れた商店は、軒並みシャッターを下ろしている。錆びた看板が、赤い陽を受け、捉えどころの無い存在感を持っていた。

僕と彼女の影が、長く伸びていた。少しずつ周囲が暗くなりはじめていて、アスファルトと影の境界が曖昧になってきた。空を見上げると、ぶ厚い雲が、夕焼けの獰猛な赤と、黒味を帯びた黄に染まっていた。街灯が灯った。白い光の玉が浮かぶ。

「寂しくないの?」

彼女は、呟くようにそう言った。再び風が音を立て、その言葉の余韻をすぐに消した。

僕は唾を飲みこみ、それから、「寂しくはないよ」と言った。

それからしばらく沈黙が訪れた。僕と彼女の足音が、ヒグラシやミイミイゼミが鳴く中で、重い質感をもって響いた。秋のような冷ややかな風が、汗ばんだ僕の皮膚を不意に冷やし、足元の夏草を撫でた。白いTシャツの袖から延びる彼女の細い腕と、僕の腕が摩れるように触れた。彼女の腕は粉っぽく乾燥していて固く、肘のあたりは骨ばっていた。

「ごめん」と僕は言った。

彼女は、まだしばらくは消えそうにない夕日を眺めている。彼女の頭の向こうには西の空があり、そのあまりの赤さに、僕は息を飲んだ。そして次の瞬間、胸を抉るような感情が突如として湧きあがってきた。

 ☆ ☆ ☆
 
 目が覚めると、僕は、小さく息を吐いた。また、彼女の夢を見た。最近、どうしてか、彼女のことをよく思い出す。

まだ陽が昇り切っていない明け方だった。薄暗さのなかで、カーテンが淡い光を湛えている。

僕はベッドから起き上がり、ベッドサイドに置いておいたミネラルウォーターを手に取り、一口、水を飲んだ。水が、乾いた喉を通り、内臓に沁み込んでいくのを感じた。

鳥が控えめにさえずり、蝉が、じわり、と鳴いた。夏の夜明けには、皮膚を切られるように鋭い痛みを感じるような切なさの中に、ほんの少しだけ期待感のような、思いがけず美しいものを見たときのような気持ちが混じる。カーテンの隙間から、ぼんやりとした光が差し込んでいた。

 僕はベッドを出て、冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出して飲み、食べ残していたサンドイッチを齧った。それから、机に向かった。ノートパソコンを開き、SNSサイトにアクセスした。画面の上下左右には、人材派遣会社、ネットゲーム、コミックサイト、保険会社の広告が張られている。その中央にある空白に、キーボードを叩いて文字を埋めていく。

 ―――――― 

夏ほど終わりを意識する季節はない。
窓を締め切っても、セミの鳴き声が聞こえてくる。
日差しは肌を焼くように熱く、遠くを見ると、陽炎が立ち上っている。蝉の鳴き声がうるさくて、いつもの街が違う世界のように感じるけれど、背後にはもうすでに秋が待ち構えている。こうしている間にも、季節の終わりはどんどんと近づいてきている。
秋は嫌いじゃない。
でもなぜだか、夏の終わりを思うと、寂しい気分になる。
大きな入道雲とか、陽炎に揺らめく遠くのアスファルトとか、夕立の気配とか、半袖から伸びる、可哀想なくらい細い腕の記憶とか、そういう一々のものに、喉元がしめつけられる。
一日一日を大切にしたいと思う。目に映るもの、僕が感じる時間の一瞬一瞬を大切にしたいと思う。けれど、どう大切にしたらいいかがわからない。いつもただそれらは過ぎていく。

 ――――――

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 ☆ ☆ ☆

 波が押し寄せ、地鳴りのような音が周期性をもって響いている。

広く開いた空に大きすぎる雲が白々と浮かんでいた。僕は防波堤に座りこんだまま、浜を眺めつづけている。どのくらいそうしていたのかはわからない。周期的な波の音は時間の感覚を麻痺させる。

傍らに置いてあるビニール袋の上には、空になったカフェラテのペットボトルが、水滴をその体に纏わせて、横たわっていた。風が吹いてビニール袋が耳障りな音を立てた。ペットボトルがビニールを巻き込みながら回り、防波堤のコンクリートから落下した。間抜けな音を立ててペットボトルは一度軽く跳ね、その後歩道へ転がっていった。

 コンクリートには水で濡れた小さな染みが残っている。僕はその染みを指で撫でた。濡れた熱が指に伝わった。僕はその指を、無意識に舌の先で舐めた。瑞々しくて生臭く、ぬるい潮の味がした。

太陽が落ち始めて、もう結構な時間が経つ。あの光の塊が海の向こうに沈んだら、また一日が終わる。太陽は動いているようになんかまったく見えないのに、光度はしだいに落ちていく。今日の一日を僕は振り返った。その記憶は数秒でまとまった。実のある事は何もしていない。集中力も思考もずっと散漫だった。

 何もしないままに時間が過ぎていく。僕がどんなに惜しんだところで、時は淡々と更新されていく。しかしつかまえようとしたって無駄だ。僕がどんなに望んでも、時間は一秒だって止ってはくれない。

世界の全てを覆うような波の音から、一つの音の塊が分離して耳に届いた。

振り向くと、防波堤の脇に車が停車した。赤い軽自動車だ。乾いた音を立てて、ドアを開いた。出て来たのは、Tシャツに、ひどく短いジーンズ生地のパンツをはいている若い女性だった。彼女は僕の方に近づき、そして、

「やっぱり、君だ」

 首を傾け、僕の顔を下から覗き込むようにして彼女は言った。色白で、冷淡な印象を受ける一重瞼の目をしていた。

 僕が黙っていると、

「久しぶりね」

 と彼女は言葉を続けた。

 僕は頷いて、視線を再び海の方へ戻した。海水浴の時期はもう終わり、あまり人はいない。女は僕の座っている防波堤に、寄りかかった。目だけで振り返ると、黒い髪と、耳の裏、白い首筋、シャツの隙間から黒い下着と胸のふくらみが見える。

「ごめん、君、なんて名前だっけ?」

 僕がそう言うと、後ろから苦笑のような声が漏れた。

「当ててみて」

 僕はしばらく考え込んでから言った。

「吉沢さん」

 彼女は黙って、手に持っていた缶を口元に当てた。そして小さく首を横に振った。僕はもう一つ、思いついた名を口にした。

「吉田さん」

 彼女は肯いた。ゆっくりとしていて、妙な威厳の籠った頷き方だった。

「飲む?」

 彼女は缶を僕の膝の上くらいに上げた。僕はそれを受け取って一口飲んだ。べっとりとした甘い味が舌に広がった。桃のジュースだった。甘さが喉にべとついた。一口だけで彼女に缶を返す。僕よりもいくらか温度の低い手が冷やりと触れた。

「吉田さんはなんでここに?」

「ただ、通りかかっただけ。後姿が見えて、もしかして、君かなと思って」

 突風が吹いた。浜辺にあった塵が舞い上がる。僕のTシャツが激しく波うち、ばさばさと音を立てた。吉田さんの髪も風になびき、僕の手に触れた。

「そう」

 僕が頷くと、彼女も、防波堤によじ登って、腰を下ろした。僕たちはしばらく会話なく、黙っていた。すると不意に、

「そんなに一日の時間が大切?」

 と、彼女が言った。

 僕は彼女の方を向いた。髪は夕日を浴びて蜜色になっていた。分け目の地肌が目に付いた。

「僕、独り言を言ってた?」

 彼女は首を振った。

「ずいぶん名残惜しそうに空を見てたから」

 僕は再び彼女の頭頂部を見た。そして再び正面へ目線を動かした。

「明日結婚するんだ」

 僕が言うと、

「おめでとう」と、吉田さんは言った。

「嘘だよ」

 僕はそう言って、防波堤を下りた。防波堤の下に溜まっていた砂を踏みしめる小さな音がした。街の方の空は濃い紺色をしていて、灰色の雲が低い場所に浮かんでいた。近くのマンションの外廊下に並んでいる蛍光灯の灯りが白く目立っていた。

 彼女もまた、防波堤から降りようとした。僕は、彼女が安全に地面に降りれるように手を貸した。

「買い物の帰りだったの?」

 吉田さんの車の中には膨らんだビニール袋が入っていた。うん、と彼女は肯いた。

「君は?」

「散歩」

 そう答え、僕はもう家へ向かおうとした。

「じゃあね」という彼女の声が背後から聞こえた。僕は首だけで振り返って、軽く会釈をした。

 それから、車のドアを閉める音が響いてきた。続いてエンジン音が鳴り、吉田さんの車が僕を追い越し、薄紫色の街の中へと消えていった。

 ☆ ☆ ☆

 目が覚めると、夕暮れ時の一歩手前の時間だった。

体中、汗をかいていた。外出着のまま眠りこんでしまっていて、硬いジーンズの中、汗で蒸れた足が気持ち悪かった。時間の感覚がない。カーテンの狭い隙間から細長い、赤色の線が差し込んでいる。部屋全体が巨大な影に飲まれたように暗かった。
僕はベッドから出て、電気を点けた。細く差し込んでいた陽は消え、蛍光灯の明るさのせいで、外はかなり暗く見えた。

 上半身を起こし、ベッドに座りなおすと、尻に硬い感触があった。手を入れると、ポケットに四つ折りにされた映画の広告が入っていた。ポロシャツ姿の腕を組んだ年配の男と、若い金髪の女性が、湖を背景にして映っている。男の目には白い前髪がかかり、憂いを帯びた伏し目をしていて、女性は無表情で正面を見つめていた。

 聞いたことのない映画だった。どうしてこんな広告が尻ポケットに入っているのかもよくわからなかった。道端で受けとって、無意識に突っ込んでいたのかもしれない。その折り目がついた広告を眺めているうちに、散歩がてら、映画でも見てみるのも悪くない時間の使い方かもしれない、と僕は思った。

 新しい服を着て、洗面台で顔を洗い、髪を梳かした。身支度を済ませると、アパートの部屋から出て、薄い紺色の街の中へ歩き出した。空の端の一点のみが、沈みかけている夕日で赤く染まっていた。

 駅前の雑踏の中に紛れて、映画館に向かって僕は歩いた。車道を行きかう車の音、交じりあって聞き取り不可能な人々の会話の声、無秩序な足音を聞いていると、なぜだか安心してきた。

 映画館に着くと、広告のポスターやパンフレットなどのグッズが並んだ、オレンジ色がかった照明に照らされた券売場でチケットを買って、座席に座った。CMの映像がスクリーンに映っている。見渡す限り、客はあまり入っていないようだった。

CMが終わり、上映前の注意事項を告げるアニメーションが始まった。タキシードを着た小熊とペンギンのキャラクターが、かわいらしい仕草と声で注意事項を読み上げている。次に配信会社のマークが大きく映り、数秒間のブラックアウトの後、白髪の男性が湖の畔で煙草を吸っている映像が流れた。

 ☆ ☆ ☆

 一口飲んで、頭痛がひどくなった。アイスコーヒーを頼んだことを猛烈に後悔した。氷が沢山浮かんでいて、その冷たさが頭に沁みた。僕は深く呼吸をして、こめかみに手を当て、目を閉じた。

 しばらくして再び目を開けると、ちょうど、黒いエプロンをつけた若い女性店員が、テーブルの上にホットドックの乗った皿を置いていった。僕は首筋を片手の中指で軽く揉みながら、皿を引き寄せた。

 店内は、冷房が良く効いていて少し肌寒い。窓から見える外はすでに暮れきっている。BGMにはピアノ曲がかかっていた。しかしそれよりも、近くに座っている女子高生三人組の会話の声の方が大きく、華やかで、BGMの方が雑音のように感じた。

 ホットドックの横に置かれている、ケチャップとマスタードの小さなパックを開けて、細く赤と黄の二色の線を引いた。一口頬張るとき、その線が上唇に触れた。ソーセージに前歯を突き立てた。軽い歯ごたえとともに、表面の薄皮が瞬間的に破れた。パンに、口中に残っていたコーヒー、唾液を吸収され、飲み下したあと、口が乾いた。

 食事をしているうちに、少しだけ、頭の痛みが治まってきた。ホットドックを食べ終えて、一息入れてから、僕は店を出た。

 駅前の通りを出、蒸し暑い夏の夜気の中を十分ほど歩き、今住んでいるアパートにたどり着いた。黄ばんだ蛍光灯が並んでいるアパートの庇の下を歩き、僕は自分の部屋の前で立ち止まり、鍵を取り出そうと、ジーンズのポケットに手を入れた。

 どこかで蝉が少しの間だけ、鳴いた。そのざらざらした音は、ふっと闇に消えた。鍵を開け、部屋の中に入ると、こもった暑い匂いがした。電気を点けて、僕はリビングの窓を開けた。風が入ってきて、カーテンが波をうった。

 あくびをかみ殺しながら、僕はシャワーを浴びに、浴槽へ向かった。熱い湯を浴びて、汗を流す。スエットを着こんで、部屋の電気を消し、タオルケットに包まって、僕はベッドに横になった。うとうとと、瞼が重い。しかし頭はまだ冴えていた。時間をかけて、ゆっくり意識が溶けていく。

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