2018/12/09

掌編:雨あがりの朝

瑞々しい雨あがりの匂いがした。アスファルトは黒くぐっしょりと濡れ、霞んだ空の向こうに上りつつある太陽からの日差しはまだ弱く、街は灰色に近い水色にぼんやりと浮かび上がっていた。僕は玄関から出るとその空気を小さく吸って、庭先のポストまで新聞を取りに行った。

 向かいに家に住む、三原という女の子は、いつも僕と同じ時間、きっかり朝の六時半に新聞を取りに外に出てくる。僕たちは、古くからある商店街の一画に住んでいた。

 僕の家は理容店で、彼女の家は喫茶店だった。彼女の家の喫茶店は、茶色のレンガ調の壁で出来ていて、店の前にはプランターに植えられた色とりどりの草花が可憐に咲いている。そのおしゃれな佇まいは、シャッターを下ろしている店も多いこの古い商店街のなかで、唯一、花やかな印象を持っている。

 彼女とは、四年前、僕たちが中学二年生だったころ、一度だけ同じクラスになったことがある。教室ではあまり会話をすることはなかったけれど、登下校中に道でばったり会ったときはなんとなく一緒に歩いたり、どちらかが学校を休んだ時なんかは、家にプリントを届けたりするくらいの付き合いはあった。

 新聞を手に持ちながら、なんとなく灰色に近い薄青い空を見ていると、向かいにある彼女の家から、カラン、というドアベルの軽やかな音がした。

 彼女が、白いシャツに黒のロングスカート、それに青色のカーディガンを羽織って、ドアから出てきたところだった。

「おはよう」

 と彼女は言った。

「おはよう」

 と僕も言った。

「ねえ、今日もコーヒー飲んでいく?」

 最近、彼女は自分のオリジナルのコーヒーを開発しているところだった。この間、道端で会ったとき、『今度試してみてくれない? 同年代の男の子の感想が聞きたいの』と言って彼女は僕を誘った。

 うん、と僕は頷いた。今までもこういう機会は何度かあって、頭のなかで数えてみると、今回で五回目になる。

「じゃあ、七時に、うちに来て」

 僕は一度家の中に引き返し、新聞をテーブルの上におき、スエットにパーカーという格好から服を着替えて、再び外へ向かった。

『CLOSED』という札の掛かっている彼女の店のドアをノックをして、その返事を聞いてから、 僕は店内に入った。

 彼女は薄い桜色のエプロンをして、店の椅子に座っていた。彼女は顔を上げて柔らかく笑んでから、よいしょ、と立ち上がった。

 木張りの床、いくつかの風景写真と、たくさん光を取り込める大きな窓、真白なカーテン、天井にはゆっくりと回転するシーリングファンがある。
 
 店内はそれほど広くないけれど、一番奥にカウンター、ほかに四つほどのテーブル席が設置されている。彼女はカウンターの向こうに立ち、長い髪をゴムで一つに結んだ。

「おじさんたちは?」

「昨日の夜から金沢に行ってる。温泉だって。だからうちは明日までおやすみ」

「三原は一緒にいかなかったんだ」

 僕がなんとはなしにそう呟くと、「だって」と彼女は苦笑した。

「親と一緒でも、別に楽しくないもの。連休中は、静かな部屋のなかで、溜まってた本を読んだり、勉強したり、音楽を聴いたりして過ごすつもり。そっちのほうがゆっくりできそうだもの」

 彼女はそう言い、手を洗ってから豆をひき始めた。シルバーの容器に入ったコーヒーの粉を慣らして、すばやく抽出器に設置した。それからミルクをスチームマシンで泡立てる。作業中の彼女の手元から響く、金属と金属が軽くぶつかる音、コーヒーの匂いとスチームマシンとミルクが立てるどこか小気味良い音が、早朝の店内に満ちていく。

 数分で、彼女が試作中のコーヒーが出来上がった。表面のミルクの泡がハート型になっているけれど、これはミルクを注ぐときに自然にできるものらしいので、特に深い意味はない。最初のとき、三原がそう教えてくれた。

「はい。甘さをひかえめにしてみたんだけど、どうですか?」

 彼女はカップとソーサーを僕の前にコトリと置いた。自分の分もあるみたいで、ゆっくりと、何かを確かめるみたいに慎重に飲んでいる。

「この前のより、飲みやすくなったみたいな気がする」と、僕は言った。

「うん。こっちのほうがいいかなぁ。甘めの香りだけど、味はすっきりしてる感じで」

 そう言って、彼女は顎に手を当てて考え込む。コーヒーの味に詳しくない僕としては、もう店主のおじさんが出すコーヒーとどこが違うのかわからない程度にはおいしいと思う。

 コーヒーを飲み切ると、僕はカップを返して、お礼を言い、一杯分の料金(彼女のコーヒーは200円)を払った。

「ごちそうさまでした」

「こちらこそ。協力してくれてありがとうございます」

 そう言ったときの彼女の言葉のイントネーションは柔らかくって、まるで綿に水がしみこむように、胸に入ってきた。

 彼女は手早く布巾やキッチンタオルのようなもので、カウンターの中を綺麗に整え始めた。僕が店に入ったときよりも、店内に差し込む光の量が増してきていて、床に窓の木枠の十字型の影を落とし始めた。光の帯の中に、粒子のように小さな埃が微かに舞っている。店の前を車が走って行って、静かな店内にその震動が伝わってきた。

「最近、暑くなってきたね」と彼女は言った。
 
「うん」と僕は言った。

「もうちょっとしたら、海とかプールで遊べる季節になるなぁ」

 と彼女は、初夏の光に輝く窓の外を見ながら言った。

「そう言えば、三原、泳ぐの好きだったもんね」

「どうして知ってるの?」

 意外そうに彼女が言った。

「小学校のとき、夏休みはよく市営のプール行ってたし。中学のときも、いつもはあんまり笑わないのに、プールの授業のときだけ楽しそうにしてた」

 そう言うと、彼女は苦笑した。僕はふいに、プールの塩素と夏草の匂いを思い出した。彼女と同じクラスだったときの、夏の記憶だ。暑くて、でも妙に体がリラックスして、窓から吹き込む風が心地よかった、プールの後の授業の、どこか甘ったるいチョークの匂い、夏の熱を持った陽光が誘う気だるさ。水から上がったあとの肌に感じる、ワイシャツのサラサラした着心地。三原は僕の少し前の席で、ポニーテールを微かに揺らしながら、ペンを持って板書していた。

「じゃあ、帰るね」

 僕は席を立って言った。

「うん。またね」

 彼女は、柔らかな笑みを浮かべ、手を顔の横で振った。僕は肯いて、店を出た。ドアベルの軽い音が、雨上がりの初夏の濡れた街に響いた。彼女と一緒にいた時間の残滓のように、ひかえめな甘さの味が、まだ少し、僕の口のなかに残っていた。

2 件のコメント:

  1. 何気ないようでとても貴重な毎日を過ごしている二人がリアルに、そしてとても素敵にみえました。
    掌編小説として書かれているので無粋かもしれませんがこの二人がどう育って、どう成長していくのか長い時間をかけてたくさん、久遠さんの文章で読めたらと思います。

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    1. こういうタイプの、物語よりも描写、あるいはリアリズムの手法を重視した作品はどこかでまたじっくりとやってみたいとずっと思っています。なので、そういうご感想が頂けると嬉しいです。
      また、これに限らず、実験的に書いてみた掌編や短編を元に長編を構想するということは考えていますので、今後どこかでそのような企画が出来たらいいなと考えています。
      ご感想ありがとうございました!

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