2018/08/06

中編:かつてそこにあったもの(2)/(3)

 その翌日の午後は薄曇りで涼しかった。僕は陽が落ち始めたころ、外に出た。

近くの公園まで歩き、ベンチに腰を下ろした。公園の敷地のすぐ外にある鉄塔が、濃い灰色の雲に向かって伸びていた。黒い電線が濃紺とグレーのグラデーションの空の下、左右に長くたわみながら伸びている。

鉄塔を囲むフェンスには「立ち入り禁止」と書かれた錆びたプレートが張り付けられていた。 

僕は、十年ほど前のある日のことを思い出した。まるで映画のように影像が流れた。妙に、鮮明な記憶だった。

あの日はまだ春になったばかりで、草花からの生臭い匂いがしていた。そんな感覚的なことすらも、はっきりと思い出すことが出来た。

並んで歩く、僕と彼女の靴が立てる音が、薄闇の中に溶けていく。横にいる彼女は一言もしゃべらない。僕たちは沈黙の中にいた。目の前のT字路の向こうには林があり、その中の木々は巨大な黒い影となって揺れている。自動販売機の光がアスファルトを青白く照らしている。その横を通り抜けるとき、スカートから伸びる彼女の脚が浮かび上がった。肉がほとんどついていない、まっすぐな足だった。

その記憶が頭のなかで薄れ、消えたあと、僕は、微かな耳鳴りがしていたことに気がついた。少しだけ、頭痛もする。僕は頭を軽く叩き、なんとなく、携帯電話をポケットから取り出した。すると、不在着信のマークが浮かんでいた。履歴通知の画面を開いてみると、その着信は知らない番号からだった。

不審に思いつつも、僕は折り返しの電話をかけた。

《もしもし》

 デジタルに切り取られた女性の声がする。

《もしもーし》

 その声に、海岸で再会した知人の顔が浮かんだ。

「吉田さん?」と僕は言った。

 ☆ ☆ ☆

 紫色の空に、赤く染まった雲が浮かんでいる。待ち合わせの時間の十分後に吉田さんは現れた。彼女はショートパンツに、胸元が緩く開いた茶色のシャツを着ていた。この間会ったときとは少し髪形が変わっていて、長い髪にパーマがかかっていた。

 夕方、駅の前は多くの人が行きかっていた。僕たちはその匿名的な雑踏の流れに混ざって十五分ほど歩き、イタリアンレストランへ入った。
木製テーブルには小さなランプが置かれているだけで、店内はひどく薄暗かった。暗くて読みづらいメニューをランプにかざす様にして読んで、いくつか注文をし、僕と吉田さんは最初にテーブルに出てきたサラダを取り分けて、二人で食べた。

「今、あなたは何をしてるの?」

「何も。少し前に仕事を辞めたんだ」

へえ、と言って吉田さんは飲み物を飲んだ。

「何の仕事をしてたの?」

「メーカーの技術職」

「なぜ辞めたの?」

 その理由は頭の中にいくつもの言葉の形をとって曖昧に存在していた。話せば一晩中でも話しつづけることができる。しかし僕は一番端的に言った。

「時間が欲しくなったから」

「生活できてるの?」

「あんまりお金を使わない生活をしてきたから、しばらく暮らせるだけの貯金はあるよ。吉田さんは今まで何をしてたの?」

「秘密」

 ウエイターがやってきて、注文していたピザやパスタを、僕たちのテーブルの上に置いていく。

 仕事帰りのような感じの、Yシャツを着た中年男性と、ブラウスを着た若い女性のグループの雑談の声が、聞き取り不可能なノイズの波となって、周囲に漂っている。お酒を飲んでいるのか、とても楽しそうな感じだった。

「こうやって話すのって懐かしいわね」

「初めてだよ」

「そうだっけ?」

「吉田さんと二人で出かけたことはなかった気がする。僕が覚えてないだけかもしれないけど」

「でもみんなでよく出かけたじゃない。覚えてないの?」

「それは、なんとなく覚えてるよ。でももう、記憶が曖昧だな」

 そんなに昔のことじゃないわよ、と彼女は笑った。

「今が充実しているからじゃないの?」

「まさか。そんなこと、全然ないよ。全く逆だよ」

 僕はここ最近の時間の過ごし方を思い出し、自分でもうんざりしながら、ピザを一切れ持って口の中に入れた。生地は薄くて、指にべっとりとオリーブオイルがついた。紙で指を拭う。指紋に沁み込んだ油は薄く光を反射させていた。

「じゃあ、毎日つまらないの?」

 僕は頷いた。

「自由な時間が出来ても、それほど嬉しいことじゃなかったよ」

 隣のサラリーマンたちが一斉に笑い出した。僕から一番近くにいる男性は、服の上からでも腰の上に肉が乗っているのがわかる。横目で見ると髪形は刈上げで、眼鏡をかけている。その前に座っている女性は顔が長く、茶色い長髪をゆるく巻いていた。正面に目を向けると、吉田さんは紙ナプキンで口元を拭いている。誰かと向き合いながら食事をするのはいつ以来だっただろか、と僕はふと思った。

「あなた、久し振りでしょう、人と話すの」

 僕は否定とも肯定とも取れるような、曖昧な返事をした。

図星、と彼女は言って、グラスに入った水を飲んだ。

 ☆ ☆ ☆

 店を出て、僕たちは夜道を歩く。仕事帰りの人たちが多く目に付く。涼しい夜で、もう秋の虫の声が小さく聞こえた。道ばたに、いくつものランプを灯したタクシーが停まっている。スーツ姿の男がそのうちの一つに歩み寄り、ドアが開いた。夜空には灰色の雲が漂っていて、その隙間にポツポツと星が出ていた。

「久しぶりに、ちゃんとしたものを食べた気がする。誘ってくれてありがとう」と、僕は言った。 吉田さんは苦笑しながら、

「ならよかった。今のうちに、こっちの知り合いみんなと話しておきたかったの」

 と答えた。彼女のサンダルの足音は僕の足音よりも大きくて、コツコツコツコツと、アスファルトの歩道に響いている。

「どうして?」

「どうしても」

 僕は彼女の横顔を見た。けれどそれは、ほとんど髪に隠れていて見えなかった。目の前の横断歩道の信号が点滅しだした。彼女は小走りに走りだす。僕もその後を追った。横断歩道を渡りきったところで、再び彼女に並ぶ。涼しい夜風が吹いて、彼女の髪が後ろへなびく。

 そのまましばらく歩くと、彼女は立ち止った。

「私、今住んでる家、こっちだから」

 視線で暗い脇道の奥を示す。僕は頷いた。

「じゃあまた」

 手を振って、彼女は細い道の奥へと足早に消えていった。僕は街灯が等間隔に並んでいる歩道を歩き出した。トラックが横を走り抜ける。塵と排気ガスが顔に当たった。道の先にはいくつかの黒い頭と商店の電飾された看板が浮かんでいた。

 僕は道の途中のスーパーマーケットに寄った。コンビニよりも少し大きい程度の規模の店だった。床が良く磨かれていて、照明の光を清潔に反射させている。店には客の姿はほとんどない。僕はカゴを持って、ミネラルウォーター、牛乳、食パン、チョコレート、ハムを買った。僕はビニール袋を提げて再び夜道に出て、雑踏のノイズの中に交じる。

 ガードレールの傍を僕は歩いた。所々、白い塗装が剥げていて、赤茶色い錆びが見えた。街灯の下には白い光が水たまりのように溜まっていた。歩くごとに、手に提げているビニール袋の擦れる音が立った。道に捨てられた煙草の吸殻がまだ細い煙を上げていた。僕は通りかかりざまにその吸殻を踏みつけた。

 ☆ ☆ ☆


家に帰り、電灯をつけてデスクチェアに座ると、突然気分が悪くなった。脳が膨張するように頭が痛くて、異様に肩が凝っていた。手でマッサージすると怠い痛みが長く肩に残った。手先が冷たく、首筋に脂汗が浮かんでいた。頬に手を当てると、熱く湿っていた。不快感に僕は舌打ちをした。

買った食材を冷蔵庫の中にしまって、スエットとTシャツに着がえた。そしてそのままベッドに横になった。周期的な、うねる様な頭痛がする。吐く息はいつもよりも熱かった。こめかみを押えて僕は頭痛に耐えた。痛みににあわせて意識が揺らぐ。蒸し暑さに、体中に汗が浮かんできた。目を閉じたときの暗闇に、妙な奥行きを感じる。

ちらほら浮かんでいた、カラフルな光の残像が漂い流れていく。瞼の裏の暗闇は立体的でどこまでも伸びていくようだった。意識のほとんどが頭の痛みに吸収され、暗闇の中に引きずり込まれるようにして、いつのまにか僕は眠りに落ちた。

☆ ☆ ☆

変な夢を見た。
急なカーブがある山道に僕は立っていた。カーブの先は崖だ。周囲は青々とした木々に覆われていて、アスファルトで舗装された道にはいくつもの小さなヒビが入っていた。どの亀裂にも緑色の雑草が生えている。ガードレールは古くて錆びていた。衝突の跡らしい凹みもところどころに見受けられる。下の方から震動が伝わってきて、ガチャガチャとした大きな音が聞こえた。僕は道を開けるように道の端に立った。大きなトラックが現れた。それは僕の目の前を通過し、前方の急なカーブを曲がりきらず直進し、ガードレールをなぎ倒して、そのまま崖の下へ落下していった。

僕は崖の下を見る。大破したトラックが横たわっていた。僕は走って山道を下りて行った。途中にいくつかの乗用車とすれ違う。僕は走った。ひたすらに山道を下りて行った。しばらくして、息が切れた。僕は走ることをやめてゆっくりと歩き出した。いつの間にか、僕は山道ではなくて、綺麗に舗装された商店の並ぶ歩道を歩いていた。隣には制服を着た女の子が歩いている。

彼女は黒い髪に、細い脚をショートパンツの下から伸ばしていた。上半身は薄いTシャツで、胸の部分はわずかに丸く盛り上がっていた。日は沈んでいたが、あたりはまだ薄明るいだけだ。彼女は僕の方を向いた。若く艶やかな、サラリとした髪が揺れる。
「どうしたの?」と僕は聞いた。

 彼女は答えない。表情は薄暗くてよく見えなかったが、口の端が持ち上がって、微笑んだことはわかった。

「思ってたより、人って簡単に死ぬのね」

 え? と僕は聞き返した。近くにあった切れかけた街灯が点滅していた。

 ☆ ☆ ☆
 
翌日の昼前に、体調が戻った。僕は食パンを食べて、カーテンを開けた。それからシャワーを浴びて、白いポロシャツとジーンズを着た。ミネラルウォーターを一気に飲んで、お湯を沸かした。キッチンテーブルの椅子に座り、沸いたお湯でコーヒーを淹れた。コーヒーをゆっくりと飲む。カップからは白い湯気が立ち上っていた。首を回したら、骨が連続的に小気味よく軽い音を立てた。

夕方、外に出て空気の流れに触れた。秋の入り口にさしかかり、風はなんとなく、いつもよりも冷やかに感じた。蝉の鳴き声もどこか大人しいように感じる。僕は空気を大きく胸に吸い込んだ。季節は、着々と進んでいた。

紫色と橙色の空を背景に、街灯がほの白く灯っている。アスファルトの歩道に幾つかの小さな石が転がっていた。僕はそれをかたっぱしから歩道の脇の植え込みに蹴り飛ばしていく。

 僕は最寄りの食料品店に入り、そこで食料を補充した。そしてビニール袋を提げて家に戻っている途中、吉田さんに出会った。

「あら。よく会うわね」

 吉田さんは七分丈のジーンズに、白い半そでのブラウスを着ていた。

 僕たちは街灯のついた電柱の傍に立ち止った。街灯の白い光の周囲には何匹かの蛾が舞っていた。電柱には何らかの張り紙がむしり取られた跡が残っている。

「どこに行っていたの?」

「買い物。君は?」

「ちょっと引っ越しの準備にね」

「どこかへ引っ越すの?」

「うん。来週」

「どこに?」

 彼女は淡白な口調でこの街から新幹線を使って三時間ほどの街の名を告げた。

「もうこっちに帰っては来ないの?」

「それはわからないけど」

 そう言って彼女は苦笑した。

僕たちはその場でしばらく会話をし、数日後に再び会う約束をした。「じゃあまた」と挨拶を交わして、僕はアパートへの帰途についた。通りすぎる家々から、テレビの音が漏れ、入浴剤の匂いが漏れていた。道に人通は少なく、街灯はじっと足下に光を落としていた。

 部屋に戻ると、買ってきた食材で簡単に夕食を作った。冷凍食品のパックされたハンバーグを茹で、炊飯器で米を炊いた。家の中は静かで、箸や食器のたてる音、エアコンの稼働音だけが響いている。テレビを点けてみたが、うるさいだけだったのですぐに消した。

今日は昼前まで眠っていたせいか、その夜はなかなか寝つけなかった。眠りは浅く、午前三時過ぎには完全に目が覚めてしまった。

僕は眠ることをあきらめて、ベッドサイドのライトを点けた。部屋の中が、ぼんやりとしたオレンジ色に浮き上がる。しばらくぼーっと部屋を眺めた。物音一つしない。デスクチェアの影が長く伸びていた。僕は体を起こして、手元にあった本を読み始めた。カーテンが色づき始めたころ、僕はシャワーを浴びて、服を着がえた。

日中は、浅い眠りを何度か繰り返し、その合間に、憂鬱に本を読んだ。頭の回転は遅く、文字を追うことだけに集中することができなくて、刹那的、断片的に浮かぶ思考に意識が頻繁に支配された。

ひどく非合理的な時間の使い方だった。時間の流れの中にただ漂っているだけのようだった。

僕はその頭痛を催すような退屈から逃れようとし、湿っぽく薄暗い部屋を出て車に乗り、ショッピングモールに向かった。

空はどこまでも黒に近い灰色の厚い雲に覆われていて、やがて、静かな雨が降り始めてきた。いくつもの赤いテールランプがフロントガラスに付着した雨滴に重なってぼやけて見える。ワイパーが動く。何本かの長い水の線が出来た。再び雨滴がフロントガラスを叩く、ワイパーがそれを引きのばす……。

 ショッピングモールの地下駐車場に入った。蒸した熱気がこもっているようで、ミラーやガラスが曇った。僕はガラスを開けて駐車した。ドアを開けて外へ出る。車を停めるスペースのアスファルトの大部分は黒々と濡れていた。車の通る道には濡れたタイヤの跡がいくつも伸びていた。

0 件のコメント:

コメントを投稿