2020/03/29

掌編:冬の海辺と巨大な暗闇

 曇りの夕方だった。夕方といっても、もうほとんど夜に近かった。光がゆっくりと衰え、景色が灰色に染まってゆく。海岸には、僕と彼女以外、誰もいない。周期的な波の音がするだけだ。

「寒いね」

 彼女は柔らかそうな白いマフラーに顎をうずめた。冷たい冬の風が海の向こうから吹き付けてきて、僕たちの身体を冷やし、彼女の長い髪を靡かせて、どこかへ去っていった。

「もうそろそろカフェにでも行きましょう?」

 彼女が首を傾げるように僕の顔をのぞき込んだ。

 うん、と僕は頷いた。しかし動こうとしない僕に、彼女は小さくため息を吐いた。

「もう。あんまり長くいると、体が冷えて、風邪ひいちゃうよ」

 そう言いながらも彼女は砂浜の上に腰を下ろし、両手を組み合わせ、吐息を吹きかけている。僕もその隣に座った。雨の日に植物を濡らす無数の雫のように、波の音は僕の胸を洗っていくような気がした。灰色の空は、どんどんと夜の暗さで世界を覆いつつある。金属を思わせるような、硬質な冷たさをもつ空気があたりに漂い、喉を通り肺に至り、僕とその冷ややかさは一つになり、再び血が身体を温め、また空気が冷やし……。波のような周期性を、体に感じる。

2019/11/04

「親しい君との見知らぬ記憶」の翻訳版を頂きました


 「親しい君との見知らぬ記憶」の中国語版を、ファミ通文庫さんから送って頂きました。

 海外の方からも感想を貰えることもあって、翻訳が出ることはとても嬉しいです。読んで下さる人に楽しんでいただけることを心から願っています。

 長編作品はこの本から少し期間が空いてしまっているのですが、また楽しんでもらえる作品を発表できるように頑張ります!

2018/12/09

掌編:雨あがりの朝

瑞々しい雨あがりの匂いがした。アスファルトは黒くぐっしょりと濡れ、霞んだ空の向こうに上りつつある太陽からの日差しはまだ弱く、街は灰色に近い水色にぼんやりと浮かび上がっていた。僕は玄関から出るとその空気を小さく吸って、庭先のポストまで新聞を取りに行った。

 向かいに家に住む、三原という女の子は、いつも僕と同じ時間、きっかり朝の六時半に新聞を取りに外に出てくる。僕たちは、古くからある商店街の一画に住んでいた。

 僕の家は理容店で、彼女の家は喫茶店だった。彼女の家の喫茶店は、茶色のレンガ調の壁で出来ていて、店の前にはプランターに植えられた色とりどりの草花が可憐に咲いている。そのおしゃれな佇まいは、シャッターを下ろしている店も多いこの古い商店街のなかで、唯一、花やかな印象を持っている。

 彼女とは、四年前、僕たちが中学二年生だったころ、一度だけ同じクラスになったことがある。教室ではあまり会話をすることはなかったけれど、登下校中に道でばったり会ったときはなんとなく一緒に歩いたり、どちらかが学校を休んだ時なんかは、家にプリントを届けたりするくらいの付き合いはあった。

 新聞を手に持ちながら、なんとなく灰色に近い薄青い空を見ていると、向かいにある彼女の家から、カラン、というドアベルの軽やかな音がした。

 彼女が、白いシャツに黒のロングスカート、それに青色のカーディガンを羽織って、ドアから出てきたところだった。

2018/10/05

夢日記 10/5

 祖父母の家の近くの懐かしい道を、僕は、高校生のころ仲の良かった友人と一緒に歩いていた。明るい時間帯ではなかったが、暗さは、真っ暗だったり、あるいは曇りの日の夕方のような薄暗さだったり、場面場面で変化していた。

 僕たちはコンビニに寄っていくつもりだったが、その全面ガラス張りの奇妙な「コンビニ」は人も物も何もなく空っぽだったので、入ることを諦めた。

 それから再び彼と歩き続けていると、大きなビルに到着した。暖色の明かりの満ちたロビーに入ると、正面にエレベーターがあり、その近くの壁には油絵が飾ってあった。

 なんとなく、遠目にその配色が気に入り、「これいいね」と言い合いながら、近づいていくと、それは女性が燃えている絵だった。といっても、凄惨な感じのものではなく、どこかコミカルな感じで、またその炎も、よく見れば炎、というよりも、後光のような、一種の精神的な表現であるようにも見えた。一瞬息を飲むような無気味さと、いたずらめいた面白味が感じられた。

 やがてエレベーターが到着し、周囲にいた中年の男たちとともにそれに乗り込むと、そこで目が覚めた。

 僕は目覚めたあとの、まだ夢と現が曖昧な柔らかい意識のなかで、彼は今も元気だろうか、と友人のことを懐かしく思い返した。僕たちの高校では禁止されていたバイトを、彼は家庭の事情で、特別に許可してもらっていた。その「家庭の事情」に、どこか暗いものを感じたけれど、彼自身は明るく、髪型や制服の着こなし方、それから高校生男子としての立ち振る舞いのセンスもよく、女子によくモテるタイプだった。彼と一緒になった帰り道に、自転車に乗りながら見ていた、夜の暗い街の風景が、ふと、脳裏をよぎった。

2018/09/12

夢日記 9/12

 暗い道路を車で走っていた。僕は助手席に座り、運転席では父がハンドルを握っていた。この夢のなかの僕は、今の成人した僕ではなく少年のときの僕のようだった。高速道路の長いトンネルのなかに僕たちはいた。オレンジ色に光っている照明が車のなかにも届き、僕の身体や、車のシートの形、ダッシュボードやシフトレバーの輪郭が暗闇のなかから暗く浮かびあがっていた。

 やがて、快適だった道路は次第に混雑してきて、ひどい渋滞になった。僕たちは休憩のためにパーキングエリアに入った。周囲に並ぶお店をひとりで巡っていると、なぜかサッカースタジアムにたどり着いてしまい、僕は引き返そうとするが、その時には帰り道がわからなくなってしまっていた。人が多い道や、ひと気のあまりない寂しさや不安が湧きあがってくるような道を、とにかく歩き続けていると、今度は、水辺に出た。中央に大きな泉があり、その周囲に木々がたくさん生えている、爽やかな場所だった。

 僕は泉に渡されている木の橋を渡り出した。カコ、という橋がわずかに動く音がした。いったい僕はどこに来てしまったのだろう、パーキングエリアからもうずいぶん離れたところに来てしまったのではないかと思いながら僕は歩きつづけた。

 次第に、わけのわからない道を歩き続ける僕の頭のなかで巡る思考の言葉の量が増え、その言葉たちが、僕の目覚めを促した。目を開けると、自室のカーテンが光を湛えていて、部屋に朝の明かりが忍び込み始めていた。